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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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道の側溝と塀の柱列、大壁住居高市郡高取町は、大和国の内でも渡来系の人々の居住が、顕著だった地とされています。
『続日本紀』に見える宝亀三年四月、坂上大忌寸苅田麻呂(さかのうえのおおいみきかりたまろ)が奏上した内容によりますと、
“高市郡内には檜前忌寸(ひのくまのいみき)の一族と十七県の人たちが多く住み着いていて、他の姓の者は十中、一~二しかいない”
となっています。
現在の檜前の地は明日香村の南の辺りを言いますが、この当時には更に南に広がった、高取町の北半分辺りまで含むと思われます。

この渡来系の人々が住んでいたのではないかと思われる住居が、ここ数年、この辺りで多く検出されている『大壁住居』です。
住居の周囲に溝を掘り、そこに多くの柱を立てて丈夫な壁を築いた、朝鮮半島などで見られる住居だろうと考えられています。
今までの町内での発掘調査でも、多くの例が見つかっているのですが、現地説明会で一般にも公開されたのは今回が初めてだそうです。
上の画像の右側の方に、くの字に曲がった溝の中に並んでいる多くの柱穴が見えますが、これが大壁住居の特徴です。
今回の調査では、少なくとも五棟が建て替えられながら存続していた様子が見られます。
最大のものは一辺が15メートルもあるそうです。

整然と並ぶ柱穴は倉庫かこちらの画像にも大壁住居の溝が見られますが、更に目を引くのは、その後の時代に立てられた総柱の掘立柱建物です。
四角い掘方は1メートルにも及び、40センチ近い直径の柱が立てられていたようです。
柱と柱の間は2.5メートル、検出されているだけでも2間×2間ですが、廂と思われる細い柱の列も東側に見られます。

新聞で報道された内容では、奈良時代くらいの道の跡(紀路と言っている新聞もありましたか)の発見が大きく扱われていました。
上の画像の右下から伸びている溝と、見学の人が立っている通路の奥の平行する溝が、この道の側溝になります。
幅60センチの溝は南北に伸びていて、両側の間は9メートルあります。
幹線道の紀路としては少し細いような印象を受けますし、本来は北東から南西に下る筋交路になるので、南北道のこれが紀路になるかは、今の所では断言できないようです。

上記の総柱の倉庫らしい建物は、この道の東側に平行して建っています。
そして道の東側溝と建物の間には、やはり平行する柵らしい柱の列が見られます。
この様子から見ても、双方に関連がある事は間違いありません。

報道では五~六世紀の大壁住居と、奈良時代の建物と道が取り上げられていましたが、この遺跡では3世紀後半の土師器が多く納められた土壙も見つかっており、この時代から人々が生活を営んでいた事も分かります。
調査は3月末まで継続するそうで、これら遺構の更に下から、古い時代の遺構や遺物の検出もあるかもしれません。
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