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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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既に夕暮れ天平十二年の十月、筑紫では戦役が起きているというのに、聖武天皇は四百騎もの兵力を伴い、伊勢行幸に出かけます。
そして十二月の半ばに山背国相楽郡恭仁郷に整備しつつあった宮に入ります。
やがてこの場所で朝賀を行い、国分寺建立の詔を発し、兵器を運ばせ、も移し、五位以上の者は平城に住む事を禁じます。
そしてついには、この場所に大極殿回廊も移築させ、『大養徳恭仁大宮』(やまとくにのおおみや)と号して都と定めます。
しかし十四年に入り、甲賀へと通じる東北道を開き、近江国甲賀郡紫香楽村離宮の造営を命じた辺りからおかしな雲行きになって行きます。

これらの動きはどうあれ、ここがかつて恭仁宮の有った場所です。
こちらの画像は恭仁宮とは直接に関係ない、『山城国分寺』の塔跡です。
紫香楽での造営活動や甲賀寺での盧舎那仏建立が架橋に入ると、恭仁京の造営は中断されるようになり、都は難波に移ったり紫香楽に行ったりと、恭仁は都として見限られるようになって行きます。
そして天平十七年、天皇は平城京に帰る事となり、恭仁宮大極殿山城国分寺の金堂として施入される事となりました。

いずれも2m近い大きな物です。この金堂跡は、基壇と国史跡に指定された後の石碑と、端のほうに三つ四つ残された礎石くらいしかありません。
おまけにその内の二つは既に動かされて、ベンチのようにやってきた人が休憩に使ったりしています。
逆に残りの良いのは、東側の芝生広場の一角に残る塔跡の礎石です。
先に紹介致しました『甲賀寺(近江国分寺)』の礎石に比べますと、かなり大きく造りも丁寧です。
山背国は藤原北家が勢力を広げていた国で、国司も北家関係の人が多いはずです。
一方、近江はといいますと、武智麻呂以来の南家支配は奈良朝後期になっても続いています。
この辺りを考えても、どちらの国分寺もそれなりの威容を示して造営されたのだと思うのですが……
それにしても度々思うのですが、ここの塔芯礎って舎利穴がないんですが、国分寺ってどこもそうでしたっけ(・・?
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