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陸奥や出羽での反乱の動きは、宝亀年間の初っ端から見ています。
最初は噂の真偽を確かめる程度で済んでいるのが、宝亀五年には行方郡の郡衙の炎上という形で現れ、鎮守府将軍の大伴駿河麻呂に軍隊の発動を命じています。
それに前後するように、桃生城への地元勢力の侵攻が報じられて、坂東諸国に援兵を出させる事態になって行きます。
翌年には、出羽国が国衙を移したい旨を言上してくるし、さらに翌七年には、夏を待って陸奥国の賊の一掃にかかりたいと、出羽の兵力四千を動員します。
ところがこの隙を突くように、出羽の志波村での叛乱が起こり、さらに関東からの援軍を要請しています。
冬にはこの動きも一旦収束したようですが、翌八年、再び出羽に兵火が起こり、陸奥按察使の紀広純は覚べつ城(字が出ませんわ(-_-; )の造営を中央に言上します。
これら東北経営には、入植者は勿論、元々この地に住んでいた人々の協力が不可欠です。
律令政権に帰属をしたこれらの人々を俘囚と呼んでいます。
道嶋宿禰の一族が、中央にもコネクションのある俘囚の名士として認識されているようですが、この人達に反発的な人々も勿論いたようです。
その代表たる伊治呰麻呂が、伊治城で兵を上げて紀広純を殺害し、更に勢力を率いて多賀城を焼き討ちしたのは宝亀十一年の三月の事でした。
さて……この頃の平城京では、天皇は既に老齢で病床に臥している状況だったと思われます。
実権は既に皇太子に移り、その同母弟も既に東大寺を出て宮内に入っていた(内道場か?)可能性もありますし、ひょっとしたら既に還俗していたかもしれません。
私としては、後者を考えているのですが、確証は特にありません。
この兄弟が陸奥に送り込んだ持節将軍が、藤原小黒麻呂です。
この小黒麻呂、東北を巡る情勢に関しては、紀古佐美や大伴家持、百済王俊哲などと並んで、かなり胡散臭い人物の一人です。
ただいま、この辺りの人達と中央政府要人の派閥を考えているのですが……
だ~か~ら~、この動きに主人公はどういう形で関わってくるのさ?
それが全然見えて来ないじゃなのの(T_T)
少なくともこいつは、早良親王も大伴家持も藤原小黒麻呂も紀古佐美も嫌いなのよ……
本当に、つかみ様のない人物を選んじまったわな、我ながら(~_~;)