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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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都が三つあるという事は、三人の主が必要なのかしら……
この疑問は、何時ぞやにも考えていた事です。
天平十二年の終わりに、伊勢や近江への行幸を経て甕原こと恭仁宮に入った聖武天皇は、ここを新たな都とすると宣言します。
東国への行幸に皇太子皇后が伴われていたのか、この辺がはっきり書かれていないのですが、少し後の記事を見ると、二人とも恭仁宮にいるようですし、太上天皇を呼ぶための内裏建設まで始まります。
恭仁宮に東西二つの内裏が存在した事は、発掘調査で判明しているので、やはり太上天皇もここに来ていたのでしょう。

さて、この頃の聖武天皇の周辺には、唐帰りのインテリが若干侍っていた事と思われます。
一人は玄昉法師、更に一人は下道(吉備)真備です。
唐には大きな二つの都がある、この事は彼ら以前にも伝える者はいた訳で、天武天皇の代に既に複都制の計画が見られます。
このような状況の下、聖武天皇は曽祖父と同じ事を考えたとは、今更ながらに人口に膾炙した説でしょう。
唐では皇帝と太子は同じ都には住まない。
つまり、太子の都はシャドウ・キャビネット、まさかの時に政権を委譲できる存在でした。

さて日本の場合はというと……平城宮には留守官を置いているのですが、ここに皇太子がいた様子はありませんし、おそらくは難波宮にいたと思われる太上天皇も、留守官に宮を預けて恭仁へと移って来てしまうようです。
再三ながらの疑問、聖武天皇にとっての複都制、副都とは何だったのか?
この答えをはっきり知っている人は、果たしているのでしょうか……そして次に来るのは紫香楽離宮の事。
ようようにして分かるのは、この複都制のモデルは最初こそ唐や隋にあったのかもしれませんが、決して同じものではないという事でしょうか……なんてのは、都城制研究会あたりで、何度も聞いた言葉なんですけれどねぇ(~_~;)
やっぱり、詔を出した本人にも、しっかりとした青写真がなかった、これで済ませても良いのかなぁ……
このコンセプトじゃ、この先、かなり大変だよ父上……σ(^◇^;)
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