×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
“是の日、討賊将軍従五位下藤原朝臣蔵下麻呂ら凱旋して捷(かち)を献す”
これは『続日本紀』の天平宝字八年九月二十日の条に見える記事です。
この九日前の十一日
“大師藤原恵美朝臣押勝の逆謀、頗る泄れたり”
という事態になります。
先手を打った太上天皇側は、内印(御璽)と駅鈴を押収しますが、逆賊とされた押勝らは太政官印を奪って逃走、近江へ入らんとするのですが……
“山背守日下部子麻呂、衛門少尉佐伯伊多智ら、直ちに田原道を取り、先に近江に至りて瀬田橋を焼く”
という、有名なシーンが展開いたします。
ここに出て来る田原道らしき遺構が発見されたニュースは記憶に新しいところです。
問題となりますのは、ここに出て来るキャストなんですわね。
現場となる山背国の国守や、衛門府のエリートが将軍として指揮に当たるのは、極めて当たり前の状況なので特に問題はないと思われます。
二人ともこの功労で四位の位と勲位を賜ります。
最初に出てきた藤原蔵下麻呂が出て来るのは、近江国高嶋郡三尾崎のおける戦闘の時で、都より派遣された援軍を率いて駆けつけています。
この時の蔵下麻呂は三十一歳、役職を私は少納言だと思っていたのであまり疑問が湧かなかったのですが、よくよく調べて見ますと、この年の正月に行われた定期の司召しで備前守に任命されています。
元々、内舎人出身、その後に出雲介、天平宝字七年に従五位下をもらって少納言になっています。
こういう経歴の人が、どうしていきなり『討賊将軍』に選ばれるのか、どうもはっきり理由が分かりません。
例えば蔵下麻呂のすぐ上の兄……雄~田~麻~呂~、あんたは戦にゃ行かんか、大和舞は舞っても(^_^;) (*_*(○=(・_・o)
その上の兄、田麻呂は、え~と陸奥の按察使で都にいないか(~_~;)
宿奈麻呂も多分おらんわ(-_-;)
ちなみに宿奈麻呂はこの年、四十九歳(^^ゞ
種継は……どうしてるのかな?うちのプランでは授刀衛府の少尉なんだけどねぇ
別に式家の必要もないでしょうから……北家の兄弟は、末っ子の楓麻呂ですら四十二歳、チョイと年が行過ぎてるのかな?
小黒麻呂なら蔵下麻呂よりも一つ年上くらいだけど、こいつじゃ駄目だったのかな?
いや、別に藤原氏から選ぶ理由もないんでしょうけど。
どうも蔵下麻呂が選ばれた理由というのが思いつかないんですね。
そもそも、この事件に藤原の他の家の面々は、どのように関わっていたのでしょう。
北家の連中は何となく胡散臭く動いているけど、南家や式家、京家には具体的な動きがほぼ見えないんです。
もっとも式家は一年前の宿奈麻呂の一件(大師暗殺計画…密告により未遂に終わる)で、当然ながら腹に一物あるのでしょうけれど。
何かこの辺が巧くまとまらなくて、太政官の陰謀みたいな流ればかりが頭に浮かんできてねぇ……
もう少し、更に脇役に目を向けてみようかしらね。
和気王、粟田道麻呂、上道正道、大津大浦、この辺の連中の接点が見つからないかなぁ?
しっかし、この四人、揃いも揃って嫌いなのよね、作者的には。
開成王も、こいつらが嫌いだって言ってるしさ。
まぁ、先の二人はまだまともに書くけどねぇ……(-。-)y-゜゜゜
これは『続日本紀』の天平宝字八年九月二十日の条に見える記事です。
この九日前の十一日
“大師藤原恵美朝臣押勝の逆謀、頗る泄れたり”
という事態になります。
先手を打った太上天皇側は、内印(御璽)と駅鈴を押収しますが、逆賊とされた押勝らは太政官印を奪って逃走、近江へ入らんとするのですが……
“山背守日下部子麻呂、衛門少尉佐伯伊多智ら、直ちに田原道を取り、先に近江に至りて瀬田橋を焼く”
という、有名なシーンが展開いたします。
ここに出て来る田原道らしき遺構が発見されたニュースは記憶に新しいところです。
問題となりますのは、ここに出て来るキャストなんですわね。
現場となる山背国の国守や、衛門府のエリートが将軍として指揮に当たるのは、極めて当たり前の状況なので特に問題はないと思われます。
二人ともこの功労で四位の位と勲位を賜ります。
最初に出てきた藤原蔵下麻呂が出て来るのは、近江国高嶋郡三尾崎のおける戦闘の時で、都より派遣された援軍を率いて駆けつけています。
この時の蔵下麻呂は三十一歳、役職を私は少納言だと思っていたのであまり疑問が湧かなかったのですが、よくよく調べて見ますと、この年の正月に行われた定期の司召しで備前守に任命されています。
元々、内舎人出身、その後に出雲介、天平宝字七年に従五位下をもらって少納言になっています。
こういう経歴の人が、どうしていきなり『討賊将軍』に選ばれるのか、どうもはっきり理由が分かりません。
例えば蔵下麻呂のすぐ上の兄……雄~田~麻~呂~、あんたは戦にゃ行かんか、大和舞は舞っても(^_^;) (*_*(○=(・_・o)
その上の兄、田麻呂は、え~と陸奥の按察使で都にいないか(~_~;)
宿奈麻呂も多分おらんわ(-_-;)
ちなみに宿奈麻呂はこの年、四十九歳(^^ゞ
種継は……どうしてるのかな?うちのプランでは授刀衛府の少尉なんだけどねぇ
別に式家の必要もないでしょうから……北家の兄弟は、末っ子の楓麻呂ですら四十二歳、チョイと年が行過ぎてるのかな?
小黒麻呂なら蔵下麻呂よりも一つ年上くらいだけど、こいつじゃ駄目だったのかな?
いや、別に藤原氏から選ぶ理由もないんでしょうけど。
どうも蔵下麻呂が選ばれた理由というのが思いつかないんですね。
そもそも、この事件に藤原の他の家の面々は、どのように関わっていたのでしょう。
北家の連中は何となく胡散臭く動いているけど、南家や式家、京家には具体的な動きがほぼ見えないんです。
もっとも式家は一年前の宿奈麻呂の一件(大師暗殺計画…密告により未遂に終わる)で、当然ながら腹に一物あるのでしょうけれど。
何かこの辺が巧くまとまらなくて、太政官の陰謀みたいな流ればかりが頭に浮かんできてねぇ……
もう少し、更に脇役に目を向けてみようかしらね。
和気王、粟田道麻呂、上道正道、大津大浦、この辺の連中の接点が見つからないかなぁ?
しっかし、この四人、揃いも揃って嫌いなのよね、作者的には。
開成王も、こいつらが嫌いだって言ってるしさ。
まぁ、先の二人はまだまともに書くけどねぇ……(-。-)y-゜゜゜
PR
兵数百でも将軍?
以前、木本好信先生の「藤原蔵下麻呂について」という論文を読んだことがあったのですが、蔵下麻呂が討賊将軍に任じられたことについて、
「天平勝宝3年頃より内舎人として上皇の在位中に4年間身近に仕えたことがあり、その時の帯刀宿衛ぶりが上皇に評価されての討賊将軍の遷任であったかもしれない」
なんて言っておられました。
そんな理由でもいいものなんですかね…孝謙上皇のキャラ次第?(笑
意外と蔵下麻呂本人が武官志望で、熱烈に希望したとか無いんでしょうか。後の近衛大将とかのイメージで見てしまうから、そんな気がするだけでしょうか…
あれ、宿奈麻呂って、押勝の乱のときは在京していたんじゃないんですか?!
薨伝のほうに、「仲満謀反して近江に走るとき、即日詔を奉りて兵数百を将ひて追つてこれを討つ」とあるので、てっきり都にいたものかと思ってました。元気な四十九歳ですよね(汗
式家の所領ってどこ?
う~ん、はっきり申しまして宿奈麻呂が在京か否かは結構微妙です。
姓も官位も剥奪の上の蟄居でしょうから、果たして都の内の第に居たものやら?
むしろ、奈良麻呂の変への連座で大宰府左遷をサボタージュして、難波の別業で踏ん張ってた豊成に近いものがあったのではと、勝手に解釈しております。
都の近くにはいたと思うけれど、都の内ではない程度の距離、藤氏ならば割合そういう所に別宅の一つや二つくらい所有していそうな気がしません??
蔵下麻呂でもう一つ気になっているのが、凱旋後に待っている異様に高すぎる叙位なんですよね。
しかし、従三位にまでなっているのに非参議。
藤原恵美家の息子らがいなくなって、参議の席に藤氏はいなくなるにもかかわらずです。
それなのに粟田道麻呂みたいな人が任命されていたりします。
この人のポジションもかなり奇妙な気がしますしねぇ。
まぁ、右大臣は南家の豊成、大納言が北家の永手、中納言は真盾という具合に、太政官の主要席は占めてますけどね。
この辺の変なアンバランスさも見てみると、蔵下麻呂の将軍任命にも何か別の意味があるんだろうかと、つい勘ぐりたくなるんですわ(^^ゞ
これだから病気なんですね、我ながら(^_^;)
でも、阿部太上天皇のキャラクターから言うと、こういう事するのかなぁ……誰か黒幕でもいる?
やっぱり北家?それとも吉備真備、いっそうの事、白壁王(うちの親父様ならやるかもしれない(--〆)