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どこかの遊園地のアトラクションに乗ろうと言う訳ではありません。
乗って欲しいのは宝亀九年、唐から日本に戻る遣唐使船です。
この遣唐使、かなりいわく付きです。
大使や副使を任命して造船を始めたのは宝亀六年六月、節刀を賜ったのは七年四月、ここで唐に残留している藤原清河への書簡を託します。
この時の節刀大使は佐伯今毛人、副使は大伴益立と藤原鷹取です。
閏八月には肥前国で風待ちをしていたのですが、結局、良い風を得られずに博多に引き返し、大宰府で次の夏まで待機を願い出ています。
このため、十一月には大使の今毛人は都に戻って節刀を返上していますが、副使や判官は大宰府に残っておりました。
しかし、この一月後、副使の益立が解任され、小野石根と大神末足が新たに任命されますが、この理由は特に記されていません……で、鷹取はどうしたんでしょう、後は名前が見えませんが?
まぁ、大納言魚名の嫡子ですから、さっさと中央に呼び戻されて別の官職に就いたのでしょう。
大使と新たな副使が都を発ったのは八年四月なのですが、何と、大使の佐伯今毛人が羅城門まで来た時に、急に病気だと言い出す始末……仮病だと堂々と言う学者もおられます(~_~;)
それでも輿に乗って摂津まで行ったというのは、マジ、パフォーマンスに思えます。
そういう訳で、副使の小野岩根が大使の代行をする事となり、六月にようやく出航しました。
唐に着いたは着いたで、安史の乱の後ですから、まだ色々とわずらわしい事があったようです。
問題となるのは帰路のそれぞれに船の運命です。
この辺はこちらの記事の最後の方に、簡単に書いております。
ここで気になるのは、第一船に乗船していた女性の事です。
また第一の船は、海中にして中断し、舳(へ)、艫(とも)各々分れぬ。主神(かむつかさ)津守宿禰国麻呂、併せて唐の行官ら五十六人、その艫に乗りて甑嶋(こしきじま)郡に着く。判官大伴宿禰継人、併せて前入唐大使藤原朝臣河清(清河)が女(むすめ)喜娘ら四十一人は、その舳に乗りて肥後国天草郡に着く。
このように見えています。
清河が唐に行ったのは、天平勝宝四(752)年ですから、ここに見える喜娘が生まれたのはその後、唐の事でしょう。
そしてこの人が日本に来たのは宝亀九(778)年ですから、父親が唐に渡ってから早い内に生まれたのだとしたら、二十代半ばにはなりますが、そんな若い女性を大使の船(第一船)とはいえ、百人以上の男がすし詰めになっている船に乗せようなんて能天気、私でも思いません。
可能性としては、かなり若いと言うか、幼女だというところでしょうか。
「海を航海する船に女の人が乗れる条件って何だと思う?」このように友人に聞いてみたところ、
「女と見なされないような年齢とか、地位にいる場合かな?」というような答えでした(^_^;)
それこそ『男女七歳にして』ではないけれど、『七歳までは神の内』、この位の年齢がリミットなのではないでしょうか。
そういう訳で、ここからが私の妄想σ(^◇^;)
多分、喜娘は一人ではなかったと勝手に思っています。
もう少し年上の兄でも同行していて、その世話をしてくれる男性も乗船していたかもしれません。
この一行の内で生き残ったのが、もしかしたら五つ六つの幼女のみ……
幼い命をみすみす波にさらわせなどせぬ、命に代えても守り通してみせる、このように思った人は何人もいたのでしょうか。
もしかしたら、判官の大伴継人にもこのくらいの年齢の娘がいたのかもしれません。
こうして、生き残った幼い女の子は、藤原北家の誰かの家に引き取られたのでしょう。
やがて名前も日本風に変わり、一族の女性たちのように内侍や女孺として出仕をするようになった……『続日本紀』にたった一度だけ見える女性は、もしかしたら別の名前でその後も人生を送ったという可能性は充分にあるのだと思います。