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奈良町の元興寺といえば世界遺産、元はといえば奈良町自体が元興寺の旧境内に広がって栄えた町です。
勿論、官寺の一つですから、寺の衰退が始まったのは平安時代以降、中世には浄土信仰の中心地として再興したものの、江戸時代の何度かの大火などもあり、さらには明治の廃仏毀釈も重なって、荒れ寺同然になっていたとか……
いずこの名刹も、明治には苦しい状況だったようですね。
それでも元興寺では『極楽坊』と『禅室』の並んだ二つの建物が存続されて現在に至ります。
この『禅室』の屋根裏に登らせてくれるという、あり難い企画が13日まで行われていまして、ようやく三日に飛び込みで参加して来ました。
この寺の飛鳥にあった頃の名前は『法興寺』です。
『日本書紀』の崇峻天皇元(588)年に、―飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)が祖樹葉(おやこのは)の家を壊(こほ)ちて、始めて法興寺を作る―このように見えていますので、創建の時ははっきりとしています。
更には三(590)年に、―冬十月に、山に入りて寺の材(き)を取る―とありますので、木材の伐採年までが分かります。
平城遷都に伴い、飛鳥周辺にあった寺々も奈良に移され、この『法興寺』も解体されて運ばれ、現在の地に再建されて『元興寺』と呼ばれるようになりました。
年輪年代法という文化財の測定方法も、かなりメジャーになりましたので、ちょっと調べれば概略は分かると思いますので省略……^_^;
こちらの材としてリタイアした『巻斗(まきと)』も、上の画像の長い頭貫(かしらぬき)という部材も、この測定法で590年前後に伐採された事が分かったそうで、元々は飛鳥で建立された寺から移された物という事になります。
これも、奈良への移築時に運ばれて来たものだと分かります。奈良に移った後にも、勿論、修理は続いています。
係りの方が懐中電灯で照らしている『肘木(ひじき)』は、形から奈良時代の物だと分かるそうです。
こうして昭和まで何度となく、大規模小規模の修理は続いて、寺も建物も存続して来ました。
それぞれの時代の材は、使える物は再利用し、壊れた物も貴重な資料となりますので保存されます。
そのような新旧の部材が、何とも無造作に見えるほどに屋根裏に並んでいました。
そしてこれがポスターなどにも採用されていた鶴のレリーフです。
昭和18年から行われた大修理の際に、職人さんが手遊びとばかりに鏝の先で描いたものだそうです。
更には、補強で入れられた梁の裏には、ノミで線彫りした戦闘機らしき悪戯書きもありました。
ところで昭和大修理は、辻村泰圓師が住持に着任して行ったのだそうで、まさに中興の祖といえる方です。
文化財保存にも力を注いだ方で、『元興寺文化財研究所』の初代理事長にも就任しました。
ところが1978年にアメリカに出張された時に亡くなられ、棺にて帰還されたとか……その黒い御棺もも屋根裏に置かれていました(;_:)
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