[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
大阪府立近つ飛鳥博物館で明日まで行われている春季特別展『継体大王の時代』です。
継体大王の時代って何時?と聞かれますと、取り敢えずは6世紀の初めと答えておけば、特に間違いはないでしょう。
この展示のサブタイトルは――百舌鳥・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け――でして、こちらの博物館は古墳時代をメインに展示を行っているので、当然の事ながら後期古墳の出土遺物がメインです、というか、ほぼそればかりです(^^ゞ
すごいなぁと思ったのが、継体天皇(継体大王)の故地と、そこに造られた古墳からの出土品の共通性でして、こいつが一つ二つの出土品のみではなく、幾つも製品に渡って見る事が出来るというところです。
例えば『捩り環頭大刀』、そして『広帯二山式冠』、『三葉文楕円形杏葉』、『十字文楕円形鏡板』、更には『尾張系埴輪』、『千里系須恵器』、『金属製梔子玉』、『埋木製棗玉』なども、継体政権を支えた人々に関係する遺物と考えられるそうです。
そしてこれらの出土状況を六世紀前半と後半で比べてみますと、何となく地域的な推移が見られる事も分かっています。
前半には近畿地方でも北部、近江や越、尾張にも分布し、後半には主に大和や摂津に分布しているそうです。
これが何を表すかといえば、政権を支えた勢力の力関係でしょう。
前半に力を持っていたのは、北部周辺の在地首長たち、割合に小さな古墳の主です。
一方後半に勢力を伸ばすのは、かつてより大和を根城にした大豪族でしょうか。
大王は、この双方を自らの勢力として抱えていた事は間違いありません。
この動きを『日本書紀』の記述や従来の研究成果に照らし合わせて見ますと、まさに継体天皇の崩御の後の息子たちの相続争いに合致するようです。
六世紀後半、継体朝を支えた大伴氏をトップに立てた勢力は、欽明大王を担ぎ上げる蘇我氏の配下に出し抜かれ、近江の息長氏や東海の尾張氏なども追い遣られて行きます。
さて、ここからはどうでも良い話σ(^◇^;)
私が昔書いていた話に出て来る越のヲホドという人は、調子が良くて押し出しの強い口八丁の男前……みたいなキャラクターでしたか。
このヲホドが、生真面目で朴念仁の根暗な葛城忍海弟彦狩野というキャラクターと、妙に仲が良いらしいと白髪太子がぼやいておりました。
私が書いていた与太話は、雄略朝から清寧朝を経て、いきなり継体朝になだれ込むという、かなり奇妙な展開でしたので、最大のキーパーソンの一人たる葛城狩野は、葛城氏のみならず、吉備氏、息長氏、大伴氏、蘇我氏にまで影響を与えるような、複雑で忙しい生い立ちを持っております。
しかし、研究者にとっては、継体天皇だろうが大伴金村だろうが蘇我稲目だろうが、プロフィールは重要なのでしょうが、キャラクターはあまり必要ないようです。
実際のこういう人達は、何に歓喜し、何に憤慨し、何を求めて苦悩したものやら……
かつては豪華絢爛だった遺物を眺めていても、想像以外の何も出来ない無能者のうめぞーでした。