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昨日から本家の管理画面にどうしてもログインできないので、こちらに相変わらず書きます。
ここ何日か、天平神護から宝亀年間の始めにかけてを眺めております。
この壱志濃王(いちしののみこ)は、この頃殆んど出てきませんが、神護景雲元年に従五位下になっているので、後の経歴から考えると、治部省辺りの中間管理職でもしているのかもしれません。
なにせこの御仁、若い頃から何度も要人の弔問使に派遣されたり、皇族の喪事の監護をしているんです。
例えば、坂合部内親王(光仁天皇異母姉)、稗田親王(光仁天皇親王)、高野朝臣新笠(光仁天皇夫人・桓武天皇生母)、藤原朝臣乙牟漏(桓武天皇皇后)など。
そして治部卿になり、参議になり、大納言にまで上るのですが、若い頃の出世のスピードは少々遅いのではと思うくらいです。
最初の叙位(三世王なので従五位下)が35歳の時です。
宝亀元年、叔父の白壁王の即位に伴い、父親の湯原王が親王となり、この御仁も二世王扱いとなり、決まりに寄れば従四位下に叙位されることになります。
従兄弟たちがその年の11月に叙位されているのに、この人だけどういう訳か一年も遅れているんです……
これに関してはいつぞやに、父親と叔父の間の確執が云々と、妄想をひねくりまわしておりましたが……ここから一向に進んでおりませんσ(^◇^;)
そろそろ、次の段階の話を始めて行くとなると、この辺も詰めて行かなくてはなりません。
そしてこの御仁と同世代の連中が、またもや、チョロチョロと高官らの間を走り回る事になりそうです。
……十一歳の皇太子は、やっぱり出る幕ないのか?
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きのううめぞーで