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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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六月十九日、奈良文化財研究所の平城第481次調査の現地説明会に行って来ました。
平城宮跡での現説って、ひょっとして一年ぶりくらいかしら……何せ昨年は平城遷都1300年祭で、満足に調査の出来るような状況でもなかったようですし。
それはともあれ、そちらの報告は明日以降にでも致します。
実を言いますと、急に思い立って『大仏蛍』なんぞ見に行ったので、帰って来たのが21時半くらい……
もしも雨が降らなかったら、また来週の土曜日にでも行こうかな……でも土曜日、仕事の可能性が極めて高いのですが(~_~;)

銀行の駐車場に咲いていた花ところで今回の現説は、この何年かに引き続いて東院地区です。
終わった後に、現場の南に復元されている『東院庭園』をいつものように眺めに行ったのですが、夏は相変わらず池の中に水草がいっぱいです。
ボランティアガイドの方が
「こちらの東院という宮殿には、皇太子が住んでおられたのですよ」
と言った説明をされていましたが、多分思うに、平城京で最後から二番目に皇太子と呼ばれた御仁は、恐らくこの東院にはすんでいなかったと思います。
参考までに申しますと、最後の皇太子は早良親王ですから、その前にそう呼ばれていた人の事ね。

この時には東院は改修されて楊梅宮(やまもものみや)と呼ばれ、完成した宝亀四年には、天皇がこちらに移り住んだと『続日本紀』に書かれています。
そうすると内裏は皇太子に明け渡したのでしょうかねぇ?
「私は既にそれなりの年ゆえに、新たな妃など必要とせぬ。親王や内親王が必要だと言うのなら、それは皇太子に任せておけば良かろう」
とか何とか六十五歳の天皇は、さっさと気心の知れた夫人だけをつれて楊梅宮に引っ越した事でしょう……
「何で俺が内裏に住んで、父上の妃らの面倒を見ねばならぬ……それでなくとも、藤氏を始めとした公卿らが次々と媛御を送り込んで来る、こちらは身の空く暇すらないぞ。おまけに何だと、中務省が東院に移るとはどういう意味だ……春宮坊がこちらに来るだと。父上は一体何を考えておられる、太政官の面々もどうして止めぬ!!」
かくして三十七歳の皇太子はぶち切れる寸前で、怨霊だの呪いだのの相手をしている暇などないのでした……この御仁の病気も過労です、さもなけりゃ仮病?????

楊梅宮の頃の東院の建物群は官衙配置に建て直されたようで、政務の中心は内裏地区を離れて、東院地区に移っていた可能性もあるようです。
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