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先週末の新聞に、恭仁京内で初めて同時期の建物と側溝が検出されたと、新聞に載っていた遺跡の現地説明会です。
京都府道の建設に伴う事前調査という訳で、担当は京都府埋蔵文化財センターです。
どこぞの都城屋の先生も、つい本音を漏らしているのを聞いた事があるのですが、恭仁宮関係ですら遺構は結構ショボイです。
こんな事、調査担当の方に正面切って言ったら怒られそうですが(~_~;)
この調査は宮内ではなく、京内域、右京に当たるエリアで行われています。
そして奈良時代後半の土器を伴う、100メートルに渡る南北の正方位に乗った溝と、やはり正方位をとる掘立柱建物が三棟ほど検出したため、今回の説明会となったそうです。
上の画像、見学の人たちのすぐ足元に、幅1メートル内外の溝が続いていますが、これは恐らく道の側溝になるのではないかと推測されています。
溝の上層から出土した土器は、奈良時代の後半の物ですが、墨書もなく、須恵器が転用硯として使われた形跡も見つからないので、役所関係ではなく、ある程度身分の高い人の屋敷の端っこの方でも引っ掛けたのかもしれないという発見のようです。
見たところ、水はけの良さそうな所なので、木簡などの有機物の資料は残っていない可能性が高そうです。
古墳時代の竪穴式住居跡で、先程の奈良時代の遺構とは別の区画で検出されています。
出土遺物として、六世紀のなで肩になり始めた締まりのない須恵器の杯(本当は土へんですわ)が出ていましたので、新しい方は六世紀、古くても五世紀後半のようです。
説明している女性の足元に、L字型の煙道を持ったかまどが出ていますが、割合に残りは良い方です。
この形式のかまどは、奈良県では明日香村や高取町、つまりは檜隈(ひのくま)地域で良く見られます。
この遺跡も上狛(かみこま)という地域にあり、近所には『高麗寺跡』もありますし、やはり渡来系の人々が多く住んでいた地とされています。
相変わらず奈良時代の遺構の方には、井出左大臣こと橘諸兄の名前が出されていたのですが、それが藤原北家でも式家でも良いのですが、やはり圧倒的に文書も考古遺物も資料不足の感は否めないようです。
いわゆる聖武天皇の彷徨の数年間、これを掘り下げると、かなり面白いんですよσ(^◇^;)
何せこいつが、東大寺という一大宗教施設の建立につながり、更には奈良時代後半の政治的な流れに大きく関わってきますからね。
この影の薄い都、決して無くても良い場所ではなかったのでしょう。
考え始めると、ドツボにはまって、さあ大変(@_@;)
この前後に見えるクーデター紛いの事件、殆どこの辺りと関係しますからねぇ……
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