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報道で大々的に取り上げられた、明日香村教育委員会による『都塚古墳』の墳丘調査の現地説明会が行なわれたのは、8月16日ですから、既に四ヶ月半ほど前になりますσ(^◇^;)
この都塚古墳ですが、1967年に石室内の調査が行われています。墳丘の造られた場所は南東から降りて来る尾根筋の上で、横穴式石室は南西に開口しています。両袖式の石室は飛鳥石、くり抜き式石棺は二上山の凝灰岩と、地産池消(?)の石材を駆使して作られています。
飛鳥における蘇我氏の本拠に立地するので、当然ながら一族の有力者の墓所と考えられています。そして墳形も蘇我氏の例にもれず方墳です。
長々と並ぶのも邪魔くさいと、現説終了時刻の30分前を目安に、14時半過ぎに到着したところ……考えが甘かった"(-""-)"
今回の調査成果で注目されたひとつが、墳丘が階段状に造られていると判明した事です。
この調査区は墳丘の北側コーナーを含む北東面に当たりますが、開口部(正面)から見ると反対側なので、造りはやや雑です。画像の上の方に見える溝が周濠ですが、幅は1m程度、深さも40cmほどの空堀です。その奥に石を置いて護岸を築いています。
手前が墳丘の初段になりますが、写真が悪いのや貼り石の残りが悪いのを差し引いても、石の大きさバラバラ、並べ方も乱雑……
こちらは北西側(正面から見て左側)に開けた調査区です。
墳丘の初段は、礫混じりの地山を削りだして、河原石を貼りつけています。ここで見る限り、石の大きさを揃え、墳丘裾のラインも良く残っています。しかし、裾に特に大きな石を並べた訳でもなく、法面にも目地らしい目地も通っていないような印象を受けます。
二段目には、多少大きな石を使っているようですが、あまり残りは良くありません。全体に散らばって見える細かい石は、元々の地面(地山)に含まれている礫です。
墳丘の置かれた尾根は南東に上がって行くので、島庄(石舞台古墳などがある地域)から見ると、裏側になります。そのために手を抜いた可能性もあるのでは、という事です(^^;)
今回の調査で分かった墳丘裾の位置などから大きさを割り出すと、東西が約41m、南北約42m、高さは4.5mとなるそうです。更には、道が昇って来る西側から墳丘を見上げると、見かけは7m以上に見えていた事にもなるという事です。下から見上げられる事を意識して、造られているのではないかと考えられます。
このような位置関係からも、6世紀後半の構築年代からも、石舞台古墳(7世紀初頭築)に先立つ墳墓として、報道各紙も被葬者の名前をこぞって上げたようですが……まぁ、被葬者論はまたその内に(しないと思うけど)m(__)m
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