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11月24日に行われた橿原考古学研究所による、 県道工事の事前調査です。
橿原神宮前から明日香村に抜けるルートはいくつかあります。最短で甘樫丘の南麓に抜ける県道124号線は、狭い、アップダウンはある、途中から一方通行という、かなりの難有りの道です。重要な生活道路ではあり、桜井行きの路線バスも通るので、何とかならないのかとは、以前から言われていました。

少し北の平坦な場所にバイパスを通す案は以前から出ていたようです。しかし、国道169号線とアクセスする場所に、このような『芋洗い地蔵尊』の祠があったので、反対意見もあって着工が遅れたと聞きました。

道を通すにあたっては、御地蔵様が安置される場所を確保し、綺麗に整備する事で、この場所での工事も始まりました。この画像の上の方、移植したばかりの木が何本か並んでいる場所に、御出で頂く予定です。ちなみに現在、御地蔵様は近くの久米寺で預かって頂いているという事です。
さて、事前調査の現場ですが、西端の四坊に当たる地区は、自然河道の大当たりですσ(^◇^;)
先の画像内の絵図にも見える『芋洗い川』は、この川の名残だと考えられます。この旧河道をたどると、暫くは道の下を通っていますが、もう少し東(左手方向)に行くと、南へとルートを変えるそうです。

河道からは、弥生時代から14世紀前半までの遺物が出土しています。以前の調査でも、この川の中から未完成のまま放置された、鎌倉時代くらいの『修羅』(木製のそり)が見つかっています。

新聞などで報道された東西に長い建物の東端の部分が、二坊に当たる地区で検出されました。この建物については、今までの調査で西側の14間分が見つかっていました。今回の東側2間分を合わせて、梁行2間×桁行16間の長大なものである事が分かりました。
この図で見ますと、建物の真ん中よりやや東を西二坊坊間路が貫いている事になります。少し見にくいのですが、道の両側に有った側溝が検出されています。建物の柱の跡は、この溝が埋められた後に掘られています。区画整備をして道を潰した後、この建物は建てられた事になります。

この場所もあまり地盤が良いとは言えず、砂混じりの氾濫原を整地して利用しています。整地層から見つかった土器は7世紀後半の物が最も新しいので、この時期に地盤整備をしています。そして道を通し、その後に建物を建てたという順番です。周囲で見つかった建物などとの関係からも、大型建物は藤原宮期後半以降の物だと言えそうです。
掘立柱を建てるに当たっては、柱が沈みこまないようにと、石を敷き詰めています。柱穴の底は既に砂混じりの地盤だそうです。

手前のピンクのテープが、建物の東端です。柱の跡はまだ掘っていません。奥には塀になると思われる柱穴が二列並び、さらに奥には、並行して溝が見つかっています。
この大型建物ですが、藤原宮以外の京内では、最も大きな規模になります。到底、一般庶民の住宅の範囲ではなく、役所か寺院に伴うものではないかと推測されています。

近くにある和田廃寺の瓦が遺物としてあります。しかし数はあまりに少なく、整地層からの出土なので、瓦葺の建物が伴っていたという事にはなりません。

既に舗装の済んだ道路面に置かれている筒は、大型建物の西端の柱位置を示しています。奥に見えるテントの左側が調査地です。さらに奥の木立は『馬立伊勢部田中神社』の杜です。
道路は社の杜を迂回するように、ここで南にクランクして、飛鳥川の堤防へと向かっています。この道ができれば、桜井方面へも抜けやすくなり、橿原神宮前駅や五条野周辺の渋滞も、少しは緩和してくれるものと、地元住民は期待しておりますm(__)m
橿原神宮前から明日香村に抜けるルートはいくつかあります。最短で甘樫丘の南麓に抜ける県道124号線は、狭い、アップダウンはある、途中から一方通行という、かなりの難有りの道です。重要な生活道路ではあり、桜井行きの路線バスも通るので、何とかならないのかとは、以前から言われていました。
少し北の平坦な場所にバイパスを通す案は以前から出ていたようです。しかし、国道169号線とアクセスする場所に、このような『芋洗い地蔵尊』の祠があったので、反対意見もあって着工が遅れたと聞きました。
道を通すにあたっては、御地蔵様が安置される場所を確保し、綺麗に整備する事で、この場所での工事も始まりました。この画像の上の方、移植したばかりの木が何本か並んでいる場所に、御出で頂く予定です。ちなみに現在、御地蔵様は近くの久米寺で預かって頂いているという事です。
さて、事前調査の現場ですが、西端の四坊に当たる地区は、自然河道の大当たりですσ(^◇^;)
先の画像内の絵図にも見える『芋洗い川』は、この川の名残だと考えられます。この旧河道をたどると、暫くは道の下を通っていますが、もう少し東(左手方向)に行くと、南へとルートを変えるそうです。
河道からは、弥生時代から14世紀前半までの遺物が出土しています。以前の調査でも、この川の中から未完成のまま放置された、鎌倉時代くらいの『修羅』(木製のそり)が見つかっています。
新聞などで報道された東西に長い建物の東端の部分が、二坊に当たる地区で検出されました。この建物については、今までの調査で西側の14間分が見つかっていました。今回の東側2間分を合わせて、梁行2間×桁行16間の長大なものである事が分かりました。
この図で見ますと、建物の真ん中よりやや東を西二坊坊間路が貫いている事になります。少し見にくいのですが、道の両側に有った側溝が検出されています。建物の柱の跡は、この溝が埋められた後に掘られています。区画整備をして道を潰した後、この建物は建てられた事になります。
この場所もあまり地盤が良いとは言えず、砂混じりの氾濫原を整地して利用しています。整地層から見つかった土器は7世紀後半の物が最も新しいので、この時期に地盤整備をしています。そして道を通し、その後に建物を建てたという順番です。周囲で見つかった建物などとの関係からも、大型建物は藤原宮期後半以降の物だと言えそうです。
掘立柱を建てるに当たっては、柱が沈みこまないようにと、石を敷き詰めています。柱穴の底は既に砂混じりの地盤だそうです。
手前のピンクのテープが、建物の東端です。柱の跡はまだ掘っていません。奥には塀になると思われる柱穴が二列並び、さらに奥には、並行して溝が見つかっています。
この大型建物ですが、藤原宮以外の京内では、最も大きな規模になります。到底、一般庶民の住宅の範囲ではなく、役所か寺院に伴うものではないかと推測されています。
近くにある和田廃寺の瓦が遺物としてあります。しかし数はあまりに少なく、整地層からの出土なので、瓦葺の建物が伴っていたという事にはなりません。
既に舗装の済んだ道路面に置かれている筒は、大型建物の西端の柱位置を示しています。奥に見えるテントの左側が調査地です。さらに奥の木立は『馬立伊勢部田中神社』の杜です。
道路は社の杜を迂回するように、ここで南にクランクして、飛鳥川の堤防へと向かっています。この道ができれば、桜井方面へも抜けやすくなり、橿原神宮前駅や五条野周辺の渋滞も、少しは緩和してくれるものと、地元住民は期待しておりますm(__)m
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