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相変わらず写真の合成が下手なので、奥の方が変にひずんでいますが、全体的に見て遺構面がかなり浅い事が分かるかと思います。
記録によればこの建物は、七度焼失して七度再建され、享保二(1717)年、八度目の火事の後は再建されなかったという事です。
調査前から礎石が地表に現れていて、周辺を掘り下げたところ、幾つかは創建時から動いた形跡が無い事が分かりました。
つまり、今まで行なわれた七度の建て直しも、同じ位置に同じ規模で行なわれた事が照明されました。
本来ならば、更に西側に『小子房』という建物も平行して建てられているはずなのですが、その礎石や抜き取り穴などは、平面での確認は出来ていないそうで、これから断ち割っての調査が続けられるとの事です。
整地層には大小の礫も多く、この地面を掘るとなると、かなり大変そうに見えます(-_-;)
記録には11間と記されていたので、復元図は従来そのように描かれていたのですが、今回、それが間違っていた事も分かったという訳です。
それにしても電気やガスや水道の配管が、遺構を破壊するように走っているのが、この画像でも分かるかと思います。
中近世の排水用の土管や暗渠も多くみられますが、新しいものでは昭和30年代くらいの配線などもあるそうです。
文化財保護法などない時代の工事なので仕方がありませんが、これはこれで見事なものです(^_^;)
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