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食堂と書いて『じきどう』と読みます。
文字通り、僧侶が食事をする場所ですが、御本尊も安置された修行の場でもあるそうです。
寺院で最も重要な金堂や講堂、僧侶の住まいとなる僧房、そしてこの食堂は主要建物としてあげる事が出来ます。
東僧房の発掘時に見つかった木簡に霊亀二(716)年の年号が書かれているそうで、この頃には薬師寺の創建が始まったようです。
しかし薬師寺の食堂は造営年代は不明で、唯一、東塔のみが天平二(730)年の建立と分かっているようです。
上の画像では調査区の端に、真っ直ぐ雨落溝が走り、三箇所で階段の基底部が見つかり、そこに続く地覆石(じふくいし)の列も見つかっています。
基壇はこの画像の辺りが残りが最も良く、高さにして50cmほど残っています。
僧房や食堂は、金堂や講堂にもまして建築が急がれるので、このような省略的な方法が取られたのでしょうか。
ちなみに金堂、講堂は掘込地業などは行わず、基壇をひたすらに丁寧に版築して作られているそうです。
記録によれば食堂は天禄四(973)年の大火災で焼失し、寛弘二(1005)年に再建されましたが、こちらの堂がいつ失われたのかは不明です。
しかし、今回の調査で見つかった食堂廃絶後に掘られたゴミ穴らしき土壙から、13世紀末くらいの瓦器碗が出ているので、この頃よりも以前に無くなった事は分かりました。
土壙で面白いのは、壷地業を行った場所の土が固かったためか、礎石がまだ残されていたためなのか、島状に掘られずに残されています。
こちらの赤いコーンの立っている位置が、本来礎石が据えられて柱が立っていた所です。
残りの悪いところでも、壷地業の底の部分が残っているので柱の位置は分かります。
今回の調査では礎石は全く残されておらず、抜き取り穴は多数検出されました。
薬師寺さんでは食堂の再建も予定しているそうで、調査の日取りもそろそろ迫って来て追い込み状態のようです。
この後は、壷地業の跡を半裁するなどの調査が続くそうです。
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