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新聞やニュースでも報道されていた、長岡京市の現地説明会に土曜日、行って来ました。
場所としては長岡京左京の六条東一坊の南東隅とでも申しますか、六条大路と東一坊大路の交差点の一部が検出されています。
この画像は調査区の南東隅から写したもので、一番目立っている河道は、長岡京時代よりも前のものです。
こちらの遺構図画が長岡京時代の遺構で、トーンがかかっている所が溝になっています。
左側の空白地帯が、実は東一坊大路の路面でして、ここを一面掘り下げたところ、上の画像のような古墳時代の川が出て来ました。
同じ時期の遺構として、土器棺墓と木棺墓が一基ずつ、掘っ立て柱建物が二件見つかっています。
真ん中より左寄りを南北に貫いているのは東一坊大路の西側溝で、下の方で直角に接している溝は、六条大路の北側溝ですが、この部分では東一坊大路を貫いていません。
こちらが西側溝の様子。
手前の方で出土しているのは、牛の骨と木材です。
この手前の方には、礎石らしき石が数点転がっていまして、この場所に橋がかかっていた事が想像できます。
牛の骨の他には、木簡や銅銭も見つかっていて、何かの祭祀が行われた可能性も考えられます。
この時代以前も以降も、辻や水際での祭りは続いていますので、平安時代を目の前にしたこの頃にも、このような場所での何らかの祭りが行われたとしても、ほぼ不思議はありません。
ところで左京六条一坊十三坪の一部の調査もされている事になりますが、ここでは溝以外に、明確な遺構はほとんど分かっていません。
東と南が大路に面しているので、この部分に築地屏があっても良さそうなのですが、それらしき痕跡も土塀の土くれや瓦などの遺物も見つかっていないようです。
溝に沿った柵列なども見られないので、住宅地としては未完成だったのか、何か特別の施設だったのかと思われます。
ニュースで取り上げられていた四点の漆紗冠は、宅地部内の溝から見つかっています。
この場所からは漆皮箱や石帯の部品なども出土しているので、何れも上級者の持ち物として、上級官人の住まいかとも考えられるのですが、場所が六条という場所なので疑問も残ります。
そこで考えられるのが、このような漆を使う製品を作っていた工房の存在です。
その証拠のように、漆の付着した須恵器や紙などが多数出土しています。
右京のこの近くでは西市の跡が見つかっているそうなので、ここも東市のすぐ近くだったと考えられ、工房としては材料調達に便利だったのかもしれません。