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最初の発掘は昭和十三年、これによって十五年に史跡指定されたとの事ですが、この寺跡の乗る木津川の河岸段丘には田園風景が広がり、堤防の上の道にはひっきりなしに自動車が走っています。
この寺の創建は7世紀初頭、白鳳時代と平安初期に伽藍整備が行われ、鎌倉時代初頭には廃絶されたようです。
昨年、一昨年の調査を見ていても、出土するかわらは圧倒的に七世紀中ごろの川原寺式の物が多く、白鳳時代の改修が大規模だった事が窺えます。
そして今回の調査で出て来たこの大溝は、築地から落ちた瓦の列を切るように南北に伸びています。
溝の底には築地と同じ瓦が落ちていて、築地塀が倒壊した時には既に、この溝が存在していた事を示しています。
溝の更に西側には瓦溜りはなく、上土塀の基壇らしき跡が検出されています。
その位置は既に確認された西側回廊の範囲よりも外になるので、これがかつての寺の西端を示す溝として掘られた可能性が指摘されます。
溝自体は寺の廃絶期まで機能していたので、寺内の排水路としてずっと使用されていたのかもしれません。
実は今回は、とても狭い範囲で検出されています。
三段目の基壇は石の列の上に丸瓦が並べられていますが、この上に約60センチと推定される瓦積み基壇があったと考えられます。
二段目や一段目は低い石敷き基壇のようですが、それよりも外側に雨落ち溝が存在するので、かなり深い軒を持った講堂のようです。
この講堂が取り付く北辺回廊によって伽藍の南北の幅、回廊の折れ曲がる位置が東西で検出された事により、東西の規模も判明します。
ところで高麗寺は西に金堂、東に塔、講堂から伸びた回廊で囲まれる『法起寺式伽藍』とされています。
それ以前には講堂は回廊の外にあったのですが、川原寺でようやく回廊内に入ってきます。
ところがこの伽藍配置はちょっと複雑で、回廊で四角く囲まれた内が、更に南北に分断されて途中の東西回廊の中央に中金堂が取り付いています。
この中金堂が講堂に変わるのが法起寺です。
川原寺の中金堂は正方形に近いプラン、高麗寺の講堂も同様です。
高麗寺と同じ伽藍配置の法起寺では、大抵の寺の講堂のように横長プランです。
高麗寺が川原寺と同じ瓦を使用する事から考えても、川原寺式から法起寺式への過渡期にこの寺が位置する事が分かります。
雲雀がさえずりお茶を焙じる香りの漂う南山城の田園地帯、1300年前には国家寺院にも准じるほどの伽藍を持った寺が泰然として存在していたのですから、渡来系氏族もなかなかに侮れないものです。
彼らの経済基盤は、事のほか広範囲に渡り安定していたのかもしれません。
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