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こちらのブログ、エディター形式が移行中で、とにかくエラーが多くて困っております。
それはともあれ、久々の難波宮での現地説明会です。
今回の調査地は、難波宮公園に復元された後期の大極殿の東100メートルという、かなり重要な建物が予想される場所です。
こちらの写真は、大阪歴史博物館の10階から見た様子ですが、左手前にある大きな建物の屋上棟に少し隠された、アルミフェンスで囲まれた地区に調査区が設けられています。
これが調査区全景、北から見ています。
手前の方の大きな穴は、下層の遺構だったり、上層からの撹乱だったりですが、前面に散らばっているのは瓦片です。
後期難波宮の大極殿院や官衙は瓦葺だったようですが、延暦四年以前より長岡宮への移築が始まっているので、まともな瓦はまず出て来ません。

新聞などの記事でも回廊の基壇の検出を報じていましたが、それが奥の白いテープで示された位置になります。
幅は7.2m、高さは30cm残っていますが、過去の調査を参考にすると、更に東へ40mは続いているそうで、この幅からして複式回廊だと考えられます。
ちなみに、調査員の足元手前の埋もれた石が奈良時代の礎石ですので、この基壇に本来据えられていた物です。
その奥のトレンチに宙ぶらりんに見える礎石は、太閤秀吉の時代の物だそうです。

このサブトレンチ、半世紀前の調査で開けられたそうですが、整地層の様子が良く分かります。
真ん中の短い矢印の幅が前期難波宮を造る際の整地層、上の少し明るい色の長い矢印幅が後期の整地層です。
出土遺物としては当然ながら瓦ですが、このように生焼け気味で経年に擦り切れて放棄された物ばかりです。
大きな方の蓮華文の軒瓦は大極殿院の北寄りで見つかる事が多いそうですが、難波宮と言えば右の半賭けのような重圏文瓦です。
完形だとしてもかなり小さいので、回廊の築地に葺かれていた物かもしれません。
ところで、今回確認された回廊に囲まれた施設が何かという事が問題となりますが、『続日本紀』の天平勝宝八歳二月の行幸の折、孝謙天皇が『難波宮に至り、東南新宮に御します』と見えます。
内裏から見て南東の方向にあるここが、『東南新宮』である可能性は充分に考えられそうです。
今回の調査地は、難波宮公園に復元された後期の大極殿の東100メートルという、かなり重要な建物が予想される場所です。
こちらの写真は、大阪歴史博物館の10階から見た様子ですが、左手前にある大きな建物の屋上棟に少し隠された、アルミフェンスで囲まれた地区に調査区が設けられています。
手前の方の大きな穴は、下層の遺構だったり、上層からの撹乱だったりですが、前面に散らばっているのは瓦片です。
後期難波宮の大極殿院や官衙は瓦葺だったようですが、延暦四年以前より長岡宮への移築が始まっているので、まともな瓦はまず出て来ません。
新聞などの記事でも回廊の基壇の検出を報じていましたが、それが奥の白いテープで示された位置になります。
幅は7.2m、高さは30cm残っていますが、過去の調査を参考にすると、更に東へ40mは続いているそうで、この幅からして複式回廊だと考えられます。
ちなみに、調査員の足元手前の埋もれた石が奈良時代の礎石ですので、この基壇に本来据えられていた物です。
その奥のトレンチに宙ぶらりんに見える礎石は、太閤秀吉の時代の物だそうです。
このサブトレンチ、半世紀前の調査で開けられたそうですが、整地層の様子が良く分かります。
真ん中の短い矢印の幅が前期難波宮を造る際の整地層、上の少し明るい色の長い矢印幅が後期の整地層です。
大きな方の蓮華文の軒瓦は大極殿院の北寄りで見つかる事が多いそうですが、難波宮と言えば右の半賭けのような重圏文瓦です。
完形だとしてもかなり小さいので、回廊の築地に葺かれていた物かもしれません。
ところで、今回確認された回廊に囲まれた施設が何かという事が問題となりますが、『続日本紀』の天平勝宝八歳二月の行幸の折、孝謙天皇が『難波宮に至り、東南新宮に御します』と見えます。
内裏から見て南東の方向にあるここが、『東南新宮』である可能性は充分に考えられそうです。
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