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天平十二(740)年に大宰府の騒ぎなど知ったこっちゃないと、東の方に出かけてしまった聖武天皇が、年も押し迫った十二月十五日、ここを都と定めると落ち着いたのが、甕原宮(みかのはらのみや)改め『大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)』です。
この辺の経緯は本頁の方で一時、やたらに書いておりましたが(^^ゞ
ともすれば紫香楽宮(しがらきのみや)よりもマイナー視される恭仁宮ですが、発掘調査は昭和四十八年から京都府教育委員会によって、地道に続けられているそうです。
大極殿の北側に後殿があるのか、回廊が伸びているのかを調査したのですが、一番上の画像を御覧下さい。
中世の削平により、基壇の痕跡と礎石の据付穴の跡が、何とか残ったという状況です。
次の画像が朝堂の柱穴ですが、この遺構面の浅さで敷石までが残っているのが大した物です(^_^;)
柱穴を挟むように二条の細い溝がありますが、もしかしたらこれは柱を立てるための企画線の可能性があるそうです。
側溝の断面で見ても数センチの整地層しかないし、周囲を見回してもこの大極殿院の乗っている場所が、全体的に高くて安定している事が良く分かります。
このように見事な芯礎と四天柱、周囲の柱の礎石も残っていますが、南東の隅だけ割られてしまっているようです。
国分寺の塔は七重、大極殿を改築した金堂と共に、稀に見るほどに立派な国分寺が、この地に立っていた往時が偲ばれるところですが、他の建物については、こちらもまだ未調査のようで(~_~)ゞ
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