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二年ぶりの甘樫丘東麓遺跡の調査です。
この場所では既に六回の調査がされているようで、今回は三年前に深い石垣の検出された場所の南東側、石垣や建物の続きが検出される事を期待されていたようです。
そして期待通り、その石垣の続きが出て来たのですが、チョッと妙な構造だというオチもついております。
ともあれ南西側の土山の上から全体を見回すと、こんな具合に見えるのですが、チョッとこれでは何だか分かりませんね(^^ゞ
そういう訳で、石垣の部分を別方向からアップで見てみました。
この画像の一番手前で石垣は途切れています。
そういう訳でここが南端となり、奥に向って伸びているのですが、2006年度の調査の石垣とは真っ直ぐにはつながっていません。
途中で西にクランクして、再び北に伸びるという形に復元が出来、北と南では石の大きさも変わっているので、もしかしたら造営に時間差があるのかもしれません。
それにしても今更に驚くのですが、この石垣の西側(画像では左側)は、本来は大きな谷になっていて、七世紀の中頃には、この石垣諸共埋めて平に造成しなおしています。
こいつをサブトレンチで一部確認する事ができるのですが、恐ろしいほどの土量です。
恐らくは蘇我氏滅亡後、天皇家が主体になって行った造成だと思います。
石垣は調査区の中央少し西よりですが、東の端にはこのような石敷きが残っています。
この右側の方は尾根筋に沿って敷かれているようで、左側は浅いクランクする溝で石敷きが途切れています。
範囲的にはあまり広い範囲で残ってはいないので、これ自体の性格は良く分からないのですが、右側に続く尾根筋上にあるであろうと思われる施設との関連を予測できます。
ただしこの石敷きは七世紀中頃のもので、石垣の埋められた後のものと考えられます。
この遺構の場所は、今までの現説の時にも再三思ったのですが、南東側以外には開けていません。
その南東側は甘樫丘と川原寺の後山に挟まれた細い谷になります。
恐らくこの部分に屋敷が構えられたので、『谷の宮門(はざまのみかど)』と呼ばれたのかもしれません。
これが『日本書紀』に見える蘇我入鹿の屋敷です。
この谷間周辺で板蓋宮や飛鳥寺を見下ろそうと思ったら、石敷きの東側に延びる尾根筋に上がらなければ周囲すら見渡す事ができません。
もしこの場所が屋敷の一部なのだとしたら、中心部は現在の県道の辺り、さもなければ尾根の上なのかもしれません。
それは、蘇我本宗家滅亡の後に、この場所が没官になっても同様なのでしょう。
何よりもこの場所って、飛鳥川に沿った道と甘樫丘麓を通る道の分岐点なのよねぇ……
ここを一豪族が抑えているって、どういう状況なの?!
……にしても、こうやって現地に行く度に思うのだけれど、岡本宮ってのか板蓋宮ってのか浄御原宮の位置って、かなり微妙なのよね。
甘樫丘の蘇我本宗家屋敷、蘇我氏の飛鳥寺、官寺とはいえ縁の橘寺、桃原の屋敷、嶋の屋敷、いずれも宮を見下ろすか並ぶような位置にある(^_^;)
倭国随一の家たる皇家が、蘇我氏に包囲されているように感じるのは私だけ?????
この場所では既に六回の調査がされているようで、今回は三年前に深い石垣の検出された場所の南東側、石垣や建物の続きが検出される事を期待されていたようです。
そして期待通り、その石垣の続きが出て来たのですが、チョッと妙な構造だというオチもついております。
ともあれ南西側の土山の上から全体を見回すと、こんな具合に見えるのですが、チョッとこれでは何だか分かりませんね(^^ゞ
そういう訳で、石垣の部分を別方向からアップで見てみました。
この画像の一番手前で石垣は途切れています。
そういう訳でここが南端となり、奥に向って伸びているのですが、2006年度の調査の石垣とは真っ直ぐにはつながっていません。
途中で西にクランクして、再び北に伸びるという形に復元が出来、北と南では石の大きさも変わっているので、もしかしたら造営に時間差があるのかもしれません。
それにしても今更に驚くのですが、この石垣の西側(画像では左側)は、本来は大きな谷になっていて、七世紀の中頃には、この石垣諸共埋めて平に造成しなおしています。
こいつをサブトレンチで一部確認する事ができるのですが、恐ろしいほどの土量です。
恐らくは蘇我氏滅亡後、天皇家が主体になって行った造成だと思います。
石垣は調査区の中央少し西よりですが、東の端にはこのような石敷きが残っています。
この右側の方は尾根筋に沿って敷かれているようで、左側は浅いクランクする溝で石敷きが途切れています。
範囲的にはあまり広い範囲で残ってはいないので、これ自体の性格は良く分からないのですが、右側に続く尾根筋上にあるであろうと思われる施設との関連を予測できます。
ただしこの石敷きは七世紀中頃のもので、石垣の埋められた後のものと考えられます。
この遺構の場所は、今までの現説の時にも再三思ったのですが、南東側以外には開けていません。
その南東側は甘樫丘と川原寺の後山に挟まれた細い谷になります。
恐らくこの部分に屋敷が構えられたので、『谷の宮門(はざまのみかど)』と呼ばれたのかもしれません。
これが『日本書紀』に見える蘇我入鹿の屋敷です。
この谷間周辺で板蓋宮や飛鳥寺を見下ろそうと思ったら、石敷きの東側に延びる尾根筋に上がらなければ周囲すら見渡す事ができません。
もしこの場所が屋敷の一部なのだとしたら、中心部は現在の県道の辺り、さもなければ尾根の上なのかもしれません。
それは、蘇我本宗家滅亡の後に、この場所が没官になっても同様なのでしょう。
何よりもこの場所って、飛鳥川に沿った道と甘樫丘麓を通る道の分岐点なのよねぇ……
ここを一豪族が抑えているって、どういう状況なの?!
……にしても、こうやって現地に行く度に思うのだけれど、岡本宮ってのか板蓋宮ってのか浄御原宮の位置って、かなり微妙なのよね。
甘樫丘の蘇我本宗家屋敷、蘇我氏の飛鳥寺、官寺とはいえ縁の橘寺、桃原の屋敷、嶋の屋敷、いずれも宮を見下ろすか並ぶような位置にある(^_^;)
倭国随一の家たる皇家が、蘇我氏に包囲されているように感じるのは私だけ?????
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