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国道307号線に入ってそのまま東へ向かいますと、狸だらけの陶芸の里に至ります。
狸を両側に見送りながら更に行き、牧東という交差点で左に入りますと、間もなく左手にこの史跡が現れます。
入り口辺りに車を停めまして、コンクリート張りの参道を上がってゆきますと、中門跡に着きます。
そこから階段を更に上がりますと、この画像のような金堂跡があります。
礎石を眺めて見ますと7間×4間、割合にオーソドックスなサイズです……国分寺だとしたらの話ですが(^_^;)
しかしここよりも更に北の『宮町遺跡』で、官衙配置の建物跡が検出されまして、宮跡はこちらだろうと言われるようになりました。
では、ここは何なの?
天平十五年十月、聖武天皇は恭仁宮において『大仏造営の詔』を発せられ、甲賀寺が造営される事になります。
その『甲賀寺』の場所がここになるのだろうと、今は大筋で言われています。
畿内では割合に身近に、奈良時代くらいの寺などの礎石を見る事ができますが、もっと綺麗に加工されて、更に大きな物の場合が多いはずです。
そしてこの金堂のサイズでは、本尊は丈六仏くらいが相応しいでしょうか、少なくとも大仏さんは納まりません(^^ゞ
果たして甲賀寺の御本尊は、どのくらいの大きさで計画されていたのでしょうか?
『続日本紀』を読んでいますと、盧舎那仏の体骨柱を立てる記事はありますが、堂などの造営は見えません。
現在、東大寺大仏殿に行きますと、大仏さんは一段高い場所に蓮華座を置いて座っておられます。
体骨柱はそのような須弥壇となる予定の基壇の上に立てられて、本尊が出来上がった後に御堂を建てる計画だったのでしょう。
もしかしたら、この礎石配置の金堂から北の部分、講堂の辺りに須弥壇を置き、更に周辺の僧房も含む広い平坦地全体を本尊が安置される金堂にと考えていたのかもしれません。
それでもこの史跡の寺跡が乗っている丘を全体に活用すれば、東大寺に匹敵する大きさの寺院を造る事は可能なのだそうです。
しかしそれも、相次ぐ天災、人災によって造仏造寺を中断せざるを得なくなり、天皇は天平十七年に平城の都に戻ってきます。
この後に寺地は再整備をされ、現在見るような伽藍配置の国分寺もしくは、それに匹敵するような寺院が造営されたのかもしれません。
と、まぁ、私はここを純然たる『甲賀寺』だとは思っていない訳なんですわ。
甲賀寺の後に造られた『近江国分寺』で良いのではないのでしょうか。
国分寺か否かは別にしても、やっぱり大方の意見でも、聖武天皇の甲賀寺を再利用した寺と考えているのだと思うのですが(@_@;)
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丈六ってなに?
Re:丈六ってなに?
一丈六尺の略でね、立った時の高さが4.85メートル位と計画して、その半分くらいの高さで造られた仏様の坐像をいうんだよ。
ちょっとした御寺の本尊には、ありがちな大きさかな。