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天平十三年九月八日、大赦の詔によって筑紫での謀反(藤原広嗣の乱)への連座者が全て赦免されるという記事が見えます。
この事件で捕えられた者らへの処刑は、この年の正月二十二日に判決がなされたようですが、当事者らは都からの指示を待つ前に処刑されていますから、かなりの権限は大将軍に委任されていたのでしょう。
ところで藤原宿奈麻呂(良継)や田麻呂は、この事件への連座によって伊豆や隠岐に配流されますが、九月の大赦によって十四年には都に戻ってきているようです。
しかし都って恭仁の事なのか、平城の事なのか……まぁ良いか、今回は。
この二人、当たり前だけど、都で連座を問われてしょっ引かれたのでしょうね。
私の勝手な想定には、二人の弟(綱手と清成)は筑紫に下ったとしてあります。
綱手の処刑は広嗣と共に行われているのですが、清成はどうしましょうね。
こいつを一言も書いていない事に先ほど気づきまして…・・(・_・;)
まぁ、直接に物語に関係しないから、一~二行ですむ事なんですけれどねぇ。
戦死か病死か、自刃って可能性もあるかな……
この方も生死は別としても、十三年の大赦で放免されているから、息子らへの咎は及ばなかったと解釈して大丈夫なんだろうなぁ。
何せ一人息子(という想定)の種継は、まだ四歳ですから。
この事件で捕えられた者らへの処刑は、この年の正月二十二日に判決がなされたようですが、当事者らは都からの指示を待つ前に処刑されていますから、かなりの権限は大将軍に委任されていたのでしょう。
ところで藤原宿奈麻呂(良継)や田麻呂は、この事件への連座によって伊豆や隠岐に配流されますが、九月の大赦によって十四年には都に戻ってきているようです。
しかし都って恭仁の事なのか、平城の事なのか……まぁ良いか、今回は。
この二人、当たり前だけど、都で連座を問われてしょっ引かれたのでしょうね。
私の勝手な想定には、二人の弟(綱手と清成)は筑紫に下ったとしてあります。
綱手の処刑は広嗣と共に行われているのですが、清成はどうしましょうね。
こいつを一言も書いていない事に先ほど気づきまして…・・(・_・;)
まぁ、直接に物語に関係しないから、一~二行ですむ事なんですけれどねぇ。
戦死か病死か、自刃って可能性もあるかな……
この方も生死は別としても、十三年の大赦で放免されているから、息子らへの咎は及ばなかったと解釈して大丈夫なんだろうなぁ。
何せ一人息子(という想定)の種継は、まだ四歳ですから。
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