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神亀五(728)年九月十三日、皇后が産んだ皇太子が二歳で亡くなり、十一月三日に智努王を長官として『金鐘山房』の建立が命じられ、同月二十八日には智行に優れた僧侶が九人、こちらに住まうようになります。
この山房が天平十三(741)年三月の『国分寺造営の詔』によって、大和国分寺になったという記録は無いのですが、『東大寺要録』によれば、天平十四年には『金光明寺』に寺名が替わっています。
国分寺という寺の正式名称は『金光明四天王護国之寺』ですから、天平十五年の正月に聖武天皇の行幸が見える『金光明寺』も、この寺の事と考えられます。
ちなみに『毘盧舎那仏造営の詔』が発せられるのは、この年の十月なので、『甲賀寺』が形になっていたとは思えませんし、山背国や近江国の国分寺の存在もこの時期は不明です。
さて、国分寺には二十人の僧侶、国分尼寺には十人の尼僧を置くようにという命令が、やはり建立の詔の中で命じられています。
最初は九人でスタートした山房も、十四年後には倍以上の僧侶の住む国分寺になったようです。
ところで、この二十人という僧侶の人数は、当時の寺としては多い方なの、少ない方なの?
こいつが本日の疑問……(@_@;)
現在の檀家制度の元でのお寺でしたら、かなり大きな部類なのでしょうけれど、この当時にはそんな寺はありませんし、氏寺や知識寺の規模も良く分かりません。
しかし、各国ごとに大般若経(全600巻)を写経して揃えろだの、一丈六尺(約4.8mですが、座像ならこの半分の高さ)の釈迦牟尼仏を造れだのの後に、七重の塔を建立して金光明最勝王経や妙法蓮華経を書写せよと命じた国分寺の造営ですから、二十人の僧侶は、きっと少ない数字ではないのでしょう。
皇太子とはいえ、たった二歳(満一歳以下)の小児の菩提のために皇家が発願した寺に、九人の僧侶というのも、何となく多いのではないかと思うのですが……
そしてこの後、この寺がどうなるのかと申しますと、『東大寺』と呼ばれるようになり、毘盧舎那仏もこの寺にて完成する事になります。