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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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言葉の意味を言っている訳ではありません。
建物を建てる順番は、建物を解体するのとは逆の手順だという事です。

これは以前に書いていた話で、恭仁京遷都により平城宮第一次大極殿を移築するという事になった時にも思ったのですが、今回、後期難波宮の大極殿を解体して、乙訓の長岡村に運ぶという件でも、やはり思った事です。
あの巨大な瓦葺礎石建ちの建造物を解体するとしたら、最初に何をするのか?
まぁ、金属の装飾などを外して、瓦を下すところから始めるでしょうねぇ。
これは建立する場合の最後の手順です。
最後には化粧基壇を解体して、基壇から礎石を掘り出すというところでしょうか。
これも基壇の地業が終わったら、礎石を据え付ける事から始まるので、建立とは逆です。

そういう訳で、外した木口金具や風鐸、下した瓦を先に移築先に運んでも、仕事には取り掛かれません。
基壇の板築はできるでしょうが、据えるべき礎石がなければ、その上に柱は立ちません。
つまり、解体がほぼ済むまで、移築先での建立は出来ない事になります。

やっと本題……
延暦三年五月、摂津職が蟇蛙の大移動という珍事なのか瑞祥なのか、よく分からない事を言上します。
この時の摂津大夫、天皇の胡散臭いブレーン(?)の一人、和気清麻呂です。
それを待ってましたと、桓武天皇は、中納言二名に参議も二名、陰陽助も含めた合計八人を山背国乙訓郡長岡村に派遣して、都としての地相を見るようにと命じます。
この報告がいつされたのかは分かりませんが、思うに、事後承諾みたいなものでしょうか。

既に当地の長岡では、大極殿院を移築する土地の伐採やら造成やら、何やらが始まっていてもおかしくないでしょう。
勿論、音頭取りは、ここ辺りの大ボス、秦氏です。
そして、ここに遣って来た八人の都人の筆頭は、藤原小黒麻呂(室が秦氏)、藤原種継(母が秦氏)の二人の中納言です。
ちなみにもう一人の中納言、大伴家持は多賀城に出張中です(~_~;)

そして難波宮では、やはり大極殿の解体が進んでいる事でしょう。
しかし難波宮大極殿といえば、当時は四天王寺の伽藍と並んで、上町台地の上の二大モニュメントですし、海側からも良く見えたようです。
一般庶民は宮には近づけないにしても、遠目に見たとき、どの程度解体が進んだところで、様子がおかしいと気付くでしょうか?
やっぱり屋根瓦が下されて、色が変わって行くくらいで何かが起きているのには気付きますか??
それが平城に伝わるのに、どのくらいの猶予があるのでしょう???
何よりも、摂津職内部で解体を知らされていないような下級の官人が、何かを騒ぎ出さないのか????
それとも何かの方便で言いくるめて、解体が進んでいるのか?????
本当にこれが秘密裏に出来た事なのか、ある程度の問題がおきてから、蟇蛙騒動だの地相使の派遣だのの勅命が下るのかな??????
疑問に思い始めると、とにかく分からない事だらけは、いつもの事ですがσ(^◇^;)

う~ん、何よりも、移築とは言え、この大極殿が長岡で使い物になるのに、どれくらいの時間が必要なのでしょう……建築にはまるで暗くて分からない(/_;)
延暦四年の元旦の朝賀は、長岡宮の大極殿で行われています。
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