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『帯解黄金塚古墳』の見学会でもらった資料に載っていた地図によると、そこから歩いて10分もしない所に『シズカ塚古墳』や『塔ノ宮廃寺』という遺跡があるのが分かりました。
どうせ帯解(おびとけ)駅まで帰る途中ルートだし寄って行きますかと、地図を見ながら歩き始めたのですが、そこで分かったのは黄金塚古墳が東から西に延びる細長い丘陵上に乗っている事です。
まぁ、こいつは地図を見れば一目瞭然なんですけどね。
ところがボヤ~ッと歩いていたところ、見事に『シズカ塚古墳』を通り過ぎたようで(^^ゞ……『塔ノ宮廃寺』のある三叉路に来ておりました。
地図によりますと、そこには現在は神社があるようで、右手前方に見える社の森を目指して歩いて行きました。
神社の名前は、真新しい鳥居に掛かった扁額に寄れば『御霊神社』、由緒を記した看板に寄れば、『御霊神社 八幡神社』と二つのお社が合社されているようです。
本殿の御祭神は早良親王、誉田別尊、大鞆和気命、崇道天皇、應神天皇とありまして……早良親王と崇道天皇って同じだし、誉田別尊と應神天皇も同じですわねぇ(~_~;)
ところで大鞆和気命って誰でしたっけ(^_^;)
調べろって(ーー;)
上の写真では分かり難いかもしれませんが、御社には二つの扉が並んでいます。
これが二つの神社が合社された事を現しているのでしょうか。
ここが寺跡だったと思える形跡は、一見したところ全く分かりませんが、境内に埴輪片と布目瓦片が落ちていました。
それはさて置き、境内にいる狛犬さんですが、ここの子達もとてもお行儀の良いペアです。
大きさは70センチくらいでしょうか、大体、ゴールデンリトリバーくらいのサイズですね。
『吽』の台座に「明治三十九年」、『阿』の台座には「二月建之」と刻まれていましたが、もしかしたら五月かもしれないし六月にも見えまして、何やら良く分かりません(・.・;)
更には「石工 中屋昭三」らしき名前もありましたが、奉納者の名前は見当たりませんでした。
この子達は極めてスタンダードなタイプなのですが、その足元にはもう一対、奇妙な狛犬さんたちが座っていました。
こちらの紹介は次回という訳で、続く……σ(^◇^;)
追記:画像のない記事の一部は、セカンド頁の方にあげております。
気の向かれた方は御覧頂ければ幸いですm(__)m
どうせ帯解(おびとけ)駅まで帰る途中ルートだし寄って行きますかと、地図を見ながら歩き始めたのですが、そこで分かったのは黄金塚古墳が東から西に延びる細長い丘陵上に乗っている事です。
まぁ、こいつは地図を見れば一目瞭然なんですけどね。
ところがボヤ~ッと歩いていたところ、見事に『シズカ塚古墳』を通り過ぎたようで(^^ゞ……『塔ノ宮廃寺』のある三叉路に来ておりました。
地図によりますと、そこには現在は神社があるようで、右手前方に見える社の森を目指して歩いて行きました。
神社の名前は、真新しい鳥居に掛かった扁額に寄れば『御霊神社』、由緒を記した看板に寄れば、『御霊神社 八幡神社』と二つのお社が合社されているようです。
本殿の御祭神は早良親王、誉田別尊、大鞆和気命、崇道天皇、應神天皇とありまして……早良親王と崇道天皇って同じだし、誉田別尊と應神天皇も同じですわねぇ(~_~;)
ところで大鞆和気命って誰でしたっけ(^_^;)
調べろって(ーー;)
上の写真では分かり難いかもしれませんが、御社には二つの扉が並んでいます。
これが二つの神社が合社された事を現しているのでしょうか。
ここが寺跡だったと思える形跡は、一見したところ全く分かりませんが、境内に埴輪片と布目瓦片が落ちていました。
それはさて置き、境内にいる狛犬さんですが、ここの子達もとてもお行儀の良いペアです。
大きさは70センチくらいでしょうか、大体、ゴールデンリトリバーくらいのサイズですね。
『吽』の台座に「明治三十九年」、『阿』の台座には「二月建之」と刻まれていましたが、もしかしたら五月かもしれないし六月にも見えまして、何やら良く分かりません(・.・;)
更には「石工 中屋昭三」らしき名前もありましたが、奉納者の名前は見当たりませんでした。
この子達は極めてスタンダードなタイプなのですが、その足元にはもう一対、奇妙な狛犬さんたちが座っていました。
こちらの紹介は次回という訳で、続く……σ(^◇^;)
追記:画像のない記事の一部は、セカンド頁の方にあげております。
気の向かれた方は御覧頂ければ幸いですm(__)m
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