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天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)とは聖武天皇の和風諡号です。
崩御は天平勝宝八歳(756年)五月二日、この時には既に娘の阿部内親王が女帝となっていて、太上天皇の立場でした。
享年は五十六歳、現代から見ればかなりの早世に思えますが、当時では平均的な寿命だったと思われます。
この御方は、天平勝宝元年に受戒して『沙弥勝満』という名前も持っておられました。
阿部女帝は、太上天皇は出家の身ゆえに諡号は奉らないと詔をしています。
しかし天平宝字二(758)年八月九日、淳仁天皇により『勝宝感神聖武皇帝』の尊号と、上記の諡号を贈られます。
こちらの東陵は『聖武天皇皇后天平應眞仁正皇太后』と看板には書かれ、御陵の前の石碑には『仁正皇后佐保山東陵』と刻まれています。
この称号は、天平宝字二年八月一日に、やはり淳仁天皇によって贈られていますが、一般に呼ばれる名前は、やはり光明皇后でしょう。
かの藤原朝臣不比等の娘として、臣下出身の皇后としてダントツに有名な方です。
崩御は天平宝字四(760)年六月七日、享年は六十歳となります。
来年は、この方の1250年御忌が東大寺で行われるそうです。
と、まぁ、奈良豆比古神社の後に、こちらの御陵に立ち寄ってみたところです。
宮内庁指定の御陵には、時々、駐車場と思しき場所がありまして、こちらも単なる空き地なのか、そういうスペースなのか分からない所があったので、勝手に車を乗り入れて参拝してまいりました。
さて、ここまで来たからには肝心の御方の墓参にも行かにゃね……
そういう訳で、高畑方面に車を向けるのでした。
崩御は天平勝宝八歳(756年)五月二日、この時には既に娘の阿部内親王が女帝となっていて、太上天皇の立場でした。
享年は五十六歳、現代から見ればかなりの早世に思えますが、当時では平均的な寿命だったと思われます。
この御方は、天平勝宝元年に受戒して『沙弥勝満』という名前も持っておられました。
阿部女帝は、太上天皇は出家の身ゆえに諡号は奉らないと詔をしています。
しかし天平宝字二(758)年八月九日、淳仁天皇により『勝宝感神聖武皇帝』の尊号と、上記の諡号を贈られます。
こちらの東陵は『聖武天皇皇后天平應眞仁正皇太后』と看板には書かれ、御陵の前の石碑には『仁正皇后佐保山東陵』と刻まれています。
この称号は、天平宝字二年八月一日に、やはり淳仁天皇によって贈られていますが、一般に呼ばれる名前は、やはり光明皇后でしょう。
かの藤原朝臣不比等の娘として、臣下出身の皇后としてダントツに有名な方です。
崩御は天平宝字四(760)年六月七日、享年は六十歳となります。
来年は、この方の1250年御忌が東大寺で行われるそうです。
と、まぁ、奈良豆比古神社の後に、こちらの御陵に立ち寄ってみたところです。
宮内庁指定の御陵には、時々、駐車場と思しき場所がありまして、こちらも単なる空き地なのか、そういうスペースなのか分からない所があったので、勝手に車を乗り入れて参拝してまいりました。
さて、ここまで来たからには肝心の御方の墓参にも行かにゃね……
そういう訳で、高畑方面に車を向けるのでした。
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