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奈良国立博物館の特別展『頼朝と重源』の奉祝として8月25日に小笠原流射礼の『大的式(おおまとしき)』が、東大寺大仏殿前庭の西の芝生で行われました。
懲りないヤツと、自分で突っ込みながら、この日もホクホクと拝見しに参りました。
『射礼』と書いて『じゃらい』と読みます。
これは『大射(おおいくは・おおゆみ)』とも呼ばれ、本来は正月17日に天皇の前で、親王以下の初位以上の官人が弓を射たという宮廷行事です。
二十名程度の選抜された人たちが行ったようです。
この類の初出は『日本書紀』によれば、清寧天皇四年
“九月丙子朔、天皇射殿に御し、百寮及び海表の使者に詔して射しめ、物を賜ふこと各差あり”
と見えています。
その後は、大化三年正月、天武四年以降の正月、持統十年正月にも見えますが、日付は16日、17日、18日と、きっちりは定まっていないようですが、この頃には既に正月の行事として定着していたようです。
『続日本紀』を見てみますと、案外、記述は少なくて、
大宝元年正月18日 右大臣の喪中のために大射を中止、
霊亀元年正月17日 王宮の南門で行う、
神亀五年正月17日 大射と雅楽寮の楽を賜る
天平十二年正月17日 大極殿の南門で見る
天平十三年正月15日 大射を停む と、この程度しかありません。
延暦年間なんて、絶対にやってるはずと思ったのですが、毎年の事、今更、記録するほどもないと思われたのでしょうかねぇ(・・?
奈良時代から平安時代初期には、親王以下の官人らが行っていたようですが、大内裏が荒廃が目立つようになる頃には、衛府の武芸に秀でた者が行うようになり、次第に天皇は勿論、公卿の参列も行われなくなるようです。
そして南北朝の頃には宮中での射礼は途絶え、後は専ら武家の儀式として重要視されるようになります。
武家の行事としては『吾妻鏡』によれば、文治五(1189)年正月2日に源頼朝が行ったところから始まるそうです。
『大的式』の詳しい内容はこちらにありました、御参照下さいσ(^◇^;)……(ーー;)おいっ!
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