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昨日に続いてUpしそこねた画像を記事と共に。
本日は、毎年十月二十二日に四天王寺で行われている『経供養』です。
場所は聖霊院です。
かつては非公開だったので『椽(えん)の下の舞楽』という別名で呼ばれる舞楽法要です。
本坊を出た色衆や楽人は、13時過ぎに入道場します。
伽陀(かだ)、集会乱声(しゅえらんじょう)に続く、鳳輦出御(ほうれんしゅつぎょ)で奥殿の御扉が開けられます。
奥殿は画像の右側にある八角堂で、その中に鳳輦が納められているようですが、一般参列者の席からは角度的に見えません。
そして最初の舞楽の『振鉾』です。
この後、一舎利と二舎利が高座に登られ、諷誦文(ふじゅもん)と願文をそれぞれ読まれます。
この間に舞台上では、次の舞楽が行われます。
今年は『打毬楽(たぎゅうらく)』です。
打毬はホッケーのような競技で、奈良時代にはかなり流行って禁止令まで出たと記録に残っています。
四人の舞人は、中央に置かれた玉を打つ仕草を繰り返して舞います。
その後、舞台上では衆僧によって『唄(ばい)・散華』が行われ、楽人が幕舎より出て舞台の周りを巡る『大行道』を行います。
次の舞楽は『狛鉾(こまほこ)』
渤海から伝わった右方の平舞で、船の櫂を操る様を現しています。
この後は『梵音・錫杖』、そして両舎利が高座を降りられ、最後の入調(にゅうじょう)の舞楽となります。
『蘭陵王』
最後に奥殿の御扉を閉めて法要の終了となります。
そして入場と同じように、楽人を先頭に帰って行かれました。
入退場に使う門は『猫の門』と呼ばれ、破風の下に猫の彫刻が置かれています。
今の門は太平洋戦争の空襲の後に再建されたものですが、それ以前の江戸時代の門の彫刻は、かの左甚五郎が担当したと言われ、日光東照宮と並ぶ『眠り猫』の彫り物だったそうで、夜になると遊びに出かけたという伝承まで残っているとか。
本日は、毎年十月二十二日に四天王寺で行われている『経供養』です。
場所は聖霊院です。
かつては非公開だったので『椽(えん)の下の舞楽』という別名で呼ばれる舞楽法要です。
本坊を出た色衆や楽人は、13時過ぎに入道場します。
伽陀(かだ)、集会乱声(しゅえらんじょう)に続く、鳳輦出御(ほうれんしゅつぎょ)で奥殿の御扉が開けられます。
奥殿は画像の右側にある八角堂で、その中に鳳輦が納められているようですが、一般参列者の席からは角度的に見えません。
そして最初の舞楽の『振鉾』です。
この後、一舎利と二舎利が高座に登られ、諷誦文(ふじゅもん)と願文をそれぞれ読まれます。
この間に舞台上では、次の舞楽が行われます。
今年は『打毬楽(たぎゅうらく)』です。
打毬はホッケーのような競技で、奈良時代にはかなり流行って禁止令まで出たと記録に残っています。
四人の舞人は、中央に置かれた玉を打つ仕草を繰り返して舞います。
その後、舞台上では衆僧によって『唄(ばい)・散華』が行われ、楽人が幕舎より出て舞台の周りを巡る『大行道』を行います。
次の舞楽は『狛鉾(こまほこ)』
渤海から伝わった右方の平舞で、船の櫂を操る様を現しています。
この後は『梵音・錫杖』、そして両舎利が高座を降りられ、最後の入調(にゅうじょう)の舞楽となります。
『蘭陵王』
最後に奥殿の御扉を閉めて法要の終了となります。
そして入場と同じように、楽人を先頭に帰って行かれました。
入退場に使う門は『猫の門』と呼ばれ、破風の下に猫の彫刻が置かれています。
今の門は太平洋戦争の空襲の後に再建されたものですが、それ以前の江戸時代の門の彫刻は、かの左甚五郎が担当したと言われ、日光東照宮と並ぶ『眠り猫』の彫り物だったそうで、夜になると遊びに出かけたという伝承まで残っているとか。
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