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昔々、橿考研と桜井市教による『磯城・磐余の諸宮調査』で、7世紀や5世紀のかなり大規模な建物跡が発見された事で注目を浴びたのが、この『脇本遺跡』です。
上層の7世紀の遺構は正方位に乗っていまして、天武天皇の第二皇女の大来皇女が伊勢の斎宮として潔斎に入った『泊瀬斎宮』ではないのかと推測され、下層の5世紀の遺構は雄略天皇の『泊瀬朝倉宮』の遺構ではという意見も出された事が特に有名でしょうか。
これらの遺跡は三輪山の南側の舌状に張り出した微高地にありまして、その中心は現在の『春日神社』の境内だろうと考えられています。
この『脇本遺跡』の調査も今回で17次になるそうですが、これは道路の拡幅に伴う事前調査だそうで、橿原考古学研究所が担当しています。
ここで検出されたのは、実に一片が1.3~1.5mもあろうという四角い掘方を持つ柱穴です。
こいつが3間×5間以上確認されていまして、しっかり正方位に乗っています。
掘方の埋土からは7世紀の土器が出てるそうで、かつての調査で発見された柱列の延長線上に乗るとの事から、この調査で検出されたこれらの柱穴も『泊瀬斎宮』に関係するものだろうと考えられます。
それにしても狭い調査地ですが、東西に長い建物か、二重の柵かと考えられる構築物のコーナーが出ています。
掘立柱の抜き取り跡ですが、使用されていた柱の直径は35~40cmもあったといいますから、そんじょそこらの掘っ立て小屋では決してない事が分かります。
この後、西隣の田んぼの刈り取りが終わったら、そちらの調査も続くそうで、さて、この柱穴の列はどのように続きますことか……
上層の7世紀の遺構は正方位に乗っていまして、天武天皇の第二皇女の大来皇女が伊勢の斎宮として潔斎に入った『泊瀬斎宮』ではないのかと推測され、下層の5世紀の遺構は雄略天皇の『泊瀬朝倉宮』の遺構ではという意見も出された事が特に有名でしょうか。
これらの遺跡は三輪山の南側の舌状に張り出した微高地にありまして、その中心は現在の『春日神社』の境内だろうと考えられています。
この『脇本遺跡』の調査も今回で17次になるそうですが、これは道路の拡幅に伴う事前調査だそうで、橿原考古学研究所が担当しています。
ここで検出されたのは、実に一片が1.3~1.5mもあろうという四角い掘方を持つ柱穴です。
こいつが3間×5間以上確認されていまして、しっかり正方位に乗っています。
掘方の埋土からは7世紀の土器が出てるそうで、かつての調査で発見された柱列の延長線上に乗るとの事から、この調査で検出されたこれらの柱穴も『泊瀬斎宮』に関係するものだろうと考えられます。
それにしても狭い調査地ですが、東西に長い建物か、二重の柵かと考えられる構築物のコーナーが出ています。
掘立柱の抜き取り跡ですが、使用されていた柱の直径は35~40cmもあったといいますから、そんじょそこらの掘っ立て小屋では決してない事が分かります。
この後、西隣の田んぼの刈り取りが終わったら、そちらの調査も続くそうで、さて、この柱穴の列はどのように続きますことか……
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