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解体前の塔では、西側にしか階段がありませんでした。しかし、今回の発掘調査によって、各面から階段を作り出す盛土や地覆石が見つかり、四面に有った事が分かりました。
各礎石ですが、心礎、四天柱、側柱共に創建当時の位置から動いていない事も判明しています。裳階柱だけは、明治の修理で置き直したようで、古い据付け穴を新しい据付け穴が切っている様子が見られます。
西塔の心礎には舎利穴が見られたのですが、こちらにはありません。二つの塔がある場合は、どちらかの一方に舎利を収めたようです。東塔心礎の上面は、このように浅く削られています。これは江戸時代の修理で、破損していた芯柱の根元を切って、根継石を入れたため、その底の形に合わせて削ってしまったからだという事です。
こちらがその根継石です。楔の跡も生々しい花崗岩の塊で、綺麗に仕上げているとは、御世辞にも言い難い物ですσ(^◇^;)
そしてこれが、西塔の心礎の原寸大レプリカになります。このように芯柱を収める穴の中心に、舎利穴が開けられています。
全て版築で仕上げた基壇ですが、礎石を置くためには据付け穴を掘らなければなりません。この土が恐ろしく固いそうで、発掘の時にも通常の道具では歯が立たず、石工用の鑿まで使ったのだとか。
そして礎石を置いた後に土を入れて固定します。この土の表面も3㎝程度の径の棒で、これでもかという程に突き固めている様子が、至る所の穴で見えます。
今回の発掘により、東塔の基壇はかなり残りの良い状況で、創建時から何度かの修復が加えられて行った事が分かりました。そして基壇外装に使われた石などが、西塔とは異なる事も判明しています。これがどうしてなのかは、これからの研究材料となるのですが、まずは解体、発掘の成果より、今後の修復の方針を明確にして行くのが先決です。
そして再び、このように二つの塔が並び立つ姿が現れるのは、数年先の事になるという事でした。
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