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北葛城郡王寺町の西安寺跡調査の現地説明会に行って来ました。
西安寺という名前は、小字名と古代・中世の文献に見えるそうです。そこに当たる場所には、現在は舟戸神社があります。
神社の境内や周辺では、飛鳥時代から中世の瓦が採集されると、昭和初期から報告があります。記録では明治14~5年くらいまで、御社に向かって左手前辺りに、塔の心礎をはじめとした礎石と思われる巨石が残っていたようです。しかし、その後に大和川に架けられる橋の基礎工事に使うために運び出されてしまったという事です。
鳥居を入って御社前に進むと、左手側に調査区が開けています。御社はほぼ北向きに建っているので、調査区は東西に開けています。
あまり広くはない境内で、木を切らずに調査するという事で、拡張も最小限に留めています。これは西から見た様子です。
上の画像の手前の部分に近寄ってみますと、このような穴になっています。これは北から見ているので方向が違いますが……
ここにかつては、塔の心礎と四天柱があったはずです。真ん中部分、周囲よりも更に浅く一段下がっている所に心礎がありました。そして心礎の跡を取り囲むのが、四天柱の抜取穴です。裏込めの根石なども運び出したのか、あまり大きくない割られたような石が散乱しています。
礎石は抜取穴より東側に二つ見つかっています。右側の礎石1は、円形の柱座(はしらざ)から左右に地覆座(じふくざ)が作り出されているので側柱だと考えられます。どちらも花崗岩です。
周囲の土も、礎石自体にも火を受けた痕があります。しかし火事が起きたというよりも、寺院が廃された後に倒壊した材などを、この場所で燃やしたようで、基壇上面には12~3㎝の厚みで炭化層が検出されています。この層から焼けた壁土、凝灰岩破片、瓦が少し出土したそうです。
礎石周辺や更に奥で白土も出土しています。炭の下になっていたので、ここでは黒いシミのように見えています。壁に塗られていた物とも思えますし、塔の内部の床が白土仕上げになっていた可能性もあります。
更に奥で、基壇の端を検出しています。花崗岩の平らな面を外に向けて並べているので、乱石積基壇だと思われますが、凝灰岩の破片も多く見つかっているので、基壇外装に使われていた可能性もあります。
これ、本来縦の画像なのですが、どうしても横になってしまいます(゜_゜>)
ともあれ、東から見るとこういう具合です。礎石が二つ出ている事で側柱の柱間が2.15m、基壇の端が検出された事で、側柱からの出も3.27mと分かります。これによって一辺が12.99mの基壇が復元できます。これは法隆寺の五重塔とほぼ同サイズだという事です。
基壇自体が造られた年代を決定するような遺物の出土は見られないのですが、礎石が露出していた時期があるという事からも、飛鳥時代の終わり以降の建造かと推測ができます。
また画像が横ですσ(^◇^;)
時代を示す遺物としては瓦があります。古い物は法隆寺若草伽藍と同じタイプ、飛鳥時代の物が見られるので、寺院はこの頃に創建されたと考えて良いのでしょう。
そして新しい方では、鎌倉時代の巴文の軒丸瓦が出土しています。この画像の右側の瓦ですが、横に走っている線は版の傷です。版型が割れても使用しているのが、何とも見事です(^^;)
寺院としてはこの頃に廃絶したものと思われます。
文献には現れるのですが、今まで遺構が確かめられなかった西安寺が、今回の調査で塔の位置や大きさが判明しました。
塔の南側にも調査区を開けたそうですが、こちらでは遺構は全く見られなかったという事です。現地形などから見ると、寺院の正面は西になるようです。北側に金堂を置く程の平らなスペースもあるように見えます。これらから伽藍配置は、向かって右に塔、左に金堂を置く法起寺式になるものと考えられます。
調査は今後も続けられ、更に西安寺の具体的な姿が分かって行くものと期待されます。
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