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11月30日に行われた、橿原市教育委員会の今井町環濠調査の現地説明会です。
今井町には二重(一部分は三重)の環濠が巡っていた事が絵図などで分かっています。昭和初期までは実際に生活排水を流すなど、実用で使われていましたが、徐々に埋め立てられて市街地化し、全体像は分からなくなってゆきました。
橿原市では発掘調査で判明した環濠の様子を復元し、周辺を公園化して往時の景観を再現しようと努めています。
今回の調査地は 今井町の西側環濠の南半分に当たります。奥に畝傍山が見えているので、この画像は南側から見た状況です。
中央の高く平らな場所は江戸時代の道路面です。その左側(東側)に環濠が掘られています。これ外環濠です。東側の肩は既に判明しているので、内環濠と共に復元されています。しかし今回検出するはずだった西肩は、昭和に入ってからの配管工事で既に壊され、一部分での検出に留まっています。
今井町の環濠は、新旧の二時期が存在します。旧環濠は幅が30m近くある事が分かっています。これが一重のものか二重なのかは、今のところ不明です。これが埋め立てられたのは、16世紀後半です。
元々は石山本願寺派、御坊の称念寺を中心とした一向宗の門徒だった今井町は、環濠と土塁を巡らせた城塞として機能していました。しかし、1570年代に織田信長の軍勢と睨み合い、土塁を潰して環濠を埋める事で、そちらの軍門に降ります。記録では、実際に戦闘は起きていないようですが、埋土からは銃弾などの当時の遺物が出土しています。
信長の庇護の元、今井町は商人の町としての繁栄を迎えます。『大和の金の七分は今井にあり』とされたのは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてで、新環濠もこの頃に掘られています。
しかし、18世紀には全国的に天災などで経済力も落ち込み、今井町もその煽りを受けています。異常気象も多く、かなり大規模な水害が起きて環濠も埋まってしまいます。
調査で見つかった江戸時代の道は、この洪水砂層の上に盛土をして造られています。幅は3.5m程で、外側は農耕地として利用されていたようです。
環濠も掘り直されていますが、この時期には繁栄にも陰りが出て、八木近辺が中和の中心となってゆきます。経済の衰えは環濠の整備にも反映しているようで、その後は急速に生活雑器などが投棄されて埋まってゆきます。
新環濠の埋土からは、江戸時代後期から近現代までの多彩な遺物が出土しています。説明会で並べられた遺物を見た限りですが、この時期によく見られる焼き継ぎなどの修復痕が見られません。衰えが見えるとは言え、まだ流通の中心でもあった地では、新たな製品が容易に手に入ったのでしょうか。修理するよりも手軽に、購入できたのかもしれません。
中和地域の中心を成した一大環濠集落の興亡は、この後も続けられる調査で、より明らかになってゆくものと思われます。
今井町には二重(一部分は三重)の環濠が巡っていた事が絵図などで分かっています。昭和初期までは実際に生活排水を流すなど、実用で使われていましたが、徐々に埋め立てられて市街地化し、全体像は分からなくなってゆきました。
橿原市では発掘調査で判明した環濠の様子を復元し、周辺を公園化して往時の景観を再現しようと努めています。
今回の調査地は 今井町の西側環濠の南半分に当たります。奥に畝傍山が見えているので、この画像は南側から見た状況です。
中央の高く平らな場所は江戸時代の道路面です。その左側(東側)に環濠が掘られています。これ外環濠です。東側の肩は既に判明しているので、内環濠と共に復元されています。しかし今回検出するはずだった西肩は、昭和に入ってからの配管工事で既に壊され、一部分での検出に留まっています。
今井町の環濠は、新旧の二時期が存在します。旧環濠は幅が30m近くある事が分かっています。これが一重のものか二重なのかは、今のところ不明です。これが埋め立てられたのは、16世紀後半です。
元々は石山本願寺派、御坊の称念寺を中心とした一向宗の門徒だった今井町は、環濠と土塁を巡らせた城塞として機能していました。しかし、1570年代に織田信長の軍勢と睨み合い、土塁を潰して環濠を埋める事で、そちらの軍門に降ります。記録では、実際に戦闘は起きていないようですが、埋土からは銃弾などの当時の遺物が出土しています。
信長の庇護の元、今井町は商人の町としての繁栄を迎えます。『大和の金の七分は今井にあり』とされたのは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてで、新環濠もこの頃に掘られています。
しかし、18世紀には全国的に天災などで経済力も落ち込み、今井町もその煽りを受けています。異常気象も多く、かなり大規模な水害が起きて環濠も埋まってしまいます。
調査で見つかった江戸時代の道は、この洪水砂層の上に盛土をして造られています。幅は3.5m程で、外側は農耕地として利用されていたようです。
環濠も掘り直されていますが、この時期には繁栄にも陰りが出て、八木近辺が中和の中心となってゆきます。経済の衰えは環濠の整備にも反映しているようで、その後は急速に生活雑器などが投棄されて埋まってゆきます。
新環濠の埋土からは、江戸時代後期から近現代までの多彩な遺物が出土しています。説明会で並べられた遺物を見た限りですが、この時期によく見られる焼き継ぎなどの修復痕が見られません。衰えが見えるとは言え、まだ流通の中心でもあった地では、新たな製品が容易に手に入ったのでしょうか。修理するよりも手軽に、購入できたのかもしれません。
中和地域の中心を成した一大環濠集落の興亡は、この後も続けられる調査で、より明らかになってゆくものと思われます。
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