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その南東にある字が薬王寺、双方にまたがった広い範囲に『十六面・薬王寺遺跡』は広がっています。
今回の調査地は、遺跡の最北端にあたり、あまり大した遺構は無いだろうと予想していたのに反して、5基の方形周溝墓を始めとした、弥生後期から中世にかけての遺構、遺物を検出しています。
調査区北東にある溝から、緑色凝灰岩製の勾玉や管玉、滑石製の臼玉が未完成品や失敗作も交えて見つかりました。
他にも鏡を模った石製模造品(こちらは別の溝から)や、石を切るのに使ったと思われる石鋸、穴を開けるのに使った水晶の石錐、磨くのに使った砥石、更には材料の石のチップも多量に出ているようです。
溝の途中に水を溜めるような遺構を設けていて、何かの御祭りをしているようです。
この溝は自然の川を掘削して、耕作用の水路として使用していたようで、古墳時代末期には使われなくなって埋没したようです。
井戸や溝から多数見つかり、遺構の時期を判断する決め手となります。
方形周溝墓からは、山陰地方からもたらされた土器も見つかっています。
この場所は弥生時代には墓所、古墳時代には住居と耕作地になっていたようですが、律令期になるとかなり開けた土地の隣接地となっているようです。
ここより300mほどの東側で、奈良時代の多くの建物跡や遺物が見つかっていて、どうやら磯城郡の郡衙に関連する土地だと考えられるのだとか。
鎌倉時代以降は全面が耕作地となったようで、条里制に伴った東西南北の鋤溝が多数残っています。
遺構面全体が、現地表からかなり浅い位置から検出されており、土地が多少高かったために常に何らかの利用がなされていた事が窺えます。
調査の後は大型店舗が建設されるそうで、調査も来週には来週には終了すると聞いています。
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