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ここ十年程度で橿原市五条野町の辺りは、かなり住宅造成が進み、風景が一変しております。
この植山古墳も、周囲の造成に伴って調査された後期古墳で、2000年に発表された二つ並んだ大規模な横穴式石室で一躍有名になり、2002年には史跡に指定されました。
この写真は西側にある見瀬丸山古墳から眺めた姿ですが、墳丘自体は右の方、ブルーシートがかかり、一際濃い茶色に見えている辺りです。
尾根の南向きの斜面を削りこんで平坦部を造って、更に墳丘を四角く盛っています。
四角い墳丘の東、北、西側にカタカナのコの字型に周濠が巡っていて、南側が開口している事になります。
今回の調査は、その開口部で行っているのですが、新聞などのニュースで発表されたとおり、本来あるべき閉塞石が見つからず、かなりの厚さの盛り土で塞がれていた事が判明しました。
こちらは西側の石室を墳丘の上から見たところです。
東西の石室とも、既に天井部の石は失われていて、このように上から眺める事が出来る状況です。
奥の方に見学者が写っていますが、この辺りは以前には民家が建っていたため削平されてしまっていて、古墳の南側の様子と、南北の長さは分かりません。
そういう訳で墳丘の大きさは、東西が40メートル、南北が27メートル以上という事になるようです。
石室の構造や出土した須恵器から、この西石室は7世紀の始めくらいに造られたと考えられています。
西石室で一番注目されたのは、手前に小判型に見えている閾石(しきみいし)です。
石室の平面プランはほぼ無袖の形(石室の構造は両袖です)で、羨道(写真では奥の方)と玄室の境の位置に、石で扉を設けていたようです。
閾石は兵庫県の揖保山で取れる竜山石という凝灰岩で出来ていて、上には観音開きになる二枚の扉石があったはずですが、既に運び出されていて、周辺にある神社の敷石に転用されている事が確認されています。
この画像は、石室側から入り口側を見た様子。
床面のはり土は除去されて、石で作られた排水溝が見えています。
その奥に残されている土の上の方が、今回確認された閉塞土です。
南側に回って石室の前から見ると、こんな感じ。
左下に見えている二つの石が排水溝で、そこよりもかなり上、羨道部の西壁の下で水平面が見えている所の右側に残っている、やや明るめに見える土が閉塞土です。
どうもこの写真では、色の違いも良く分からないのですが、あまり西石室では残りが良くない状況です。
真ん中辺りに玄室の奥石が見えていますが、本来ならばこの前に置かれていてしかるべき石棺はありません。
今までの調査で、阿蘇産のピンク石(凝灰岩)の破片が出ているので、置かれていた可能性はあるそうです。
今回の説明会で調査担当者は、被葬者について一切云々はしておられませんでしたが、世間的な認識では推古天皇と息子の竹田皇子の合葬墓だろうと言われています。
『日本書紀』や『古事記』には、女帝が先に亡くなった皇子の大野岡の墓所に追葬されたとあり、後に科長に造られた新たな御陵に移されたとありますので、ここは最初の大野岡の御陵と考えられている訳です。
東石室に比べて西石室の方が四半世紀程度新しいようなので、これらの推測によれば、西石室に推古女帝が葬られたと考えて良いようです。
では東石室の様子は、また記事を改めましてm(__)m
この植山古墳も、周囲の造成に伴って調査された後期古墳で、2000年に発表された二つ並んだ大規模な横穴式石室で一躍有名になり、2002年には史跡に指定されました。
この写真は西側にある見瀬丸山古墳から眺めた姿ですが、墳丘自体は右の方、ブルーシートがかかり、一際濃い茶色に見えている辺りです。
尾根の南向きの斜面を削りこんで平坦部を造って、更に墳丘を四角く盛っています。
四角い墳丘の東、北、西側にカタカナのコの字型に周濠が巡っていて、南側が開口している事になります。
今回の調査は、その開口部で行っているのですが、新聞などのニュースで発表されたとおり、本来あるべき閉塞石が見つからず、かなりの厚さの盛り土で塞がれていた事が判明しました。
こちらは西側の石室を墳丘の上から見たところです。
東西の石室とも、既に天井部の石は失われていて、このように上から眺める事が出来る状況です。
奥の方に見学者が写っていますが、この辺りは以前には民家が建っていたため削平されてしまっていて、古墳の南側の様子と、南北の長さは分かりません。
そういう訳で墳丘の大きさは、東西が40メートル、南北が27メートル以上という事になるようです。
石室の構造や出土した須恵器から、この西石室は7世紀の始めくらいに造られたと考えられています。
西石室で一番注目されたのは、手前に小判型に見えている閾石(しきみいし)です。
石室の平面プランはほぼ無袖の形(石室の構造は両袖です)で、羨道(写真では奥の方)と玄室の境の位置に、石で扉を設けていたようです。
閾石は兵庫県の揖保山で取れる竜山石という凝灰岩で出来ていて、上には観音開きになる二枚の扉石があったはずですが、既に運び出されていて、周辺にある神社の敷石に転用されている事が確認されています。
この画像は、石室側から入り口側を見た様子。
床面のはり土は除去されて、石で作られた排水溝が見えています。
その奥に残されている土の上の方が、今回確認された閉塞土です。
南側に回って石室の前から見ると、こんな感じ。
左下に見えている二つの石が排水溝で、そこよりもかなり上、羨道部の西壁の下で水平面が見えている所の右側に残っている、やや明るめに見える土が閉塞土です。
どうもこの写真では、色の違いも良く分からないのですが、あまり西石室では残りが良くない状況です。
真ん中辺りに玄室の奥石が見えていますが、本来ならばこの前に置かれていてしかるべき石棺はありません。
今までの調査で、阿蘇産のピンク石(凝灰岩)の破片が出ているので、置かれていた可能性はあるそうです。
今回の説明会で調査担当者は、被葬者について一切云々はしておられませんでしたが、世間的な認識では推古天皇と息子の竹田皇子の合葬墓だろうと言われています。
『日本書紀』や『古事記』には、女帝が先に亡くなった皇子の大野岡の墓所に追葬されたとあり、後に科長に造られた新たな御陵に移されたとありますので、ここは最初の大野岡の御陵と考えられている訳です。
東石室に比べて西石室の方が四半世紀程度新しいようなので、これらの推測によれば、西石室に推古女帝が葬られたと考えて良いようです。
では東石室の様子は、また記事を改めましてm(__)m
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