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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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先日の報道で取り上げられていた、平城宮での幢旗跡発見かという発掘現場です。
場所はこのように、『第一次大極殿』の真正面ですが、こちらのメイン遺構は少し時代が下がって奈良時代後半になります。

第一次大極殿が藤原宮から移築された事は、文献でも遺構でも確認されています。
この後、この巨大な建物は、遷都と共に恭仁宮に移築され、再び都が平城に帰って来た後は、山背国分寺の金堂として喜捨されます。
かつての敷地には、『西宮』と続日本紀に書かれた宮殿が建てられ、称徳女帝の頃には内裏として使われた事が見えています。
更に後の平安遷都後、平城太上天皇が同母弟と大喧嘩の揚句、ここに宮殿を建てて暫らく済んでいた事も有名です。

このような訳で第一次大極殿院には、大まかに見ても三つの時期の遺構が重なっている事になります。
この図面の赤い線で示された遺構が『西宮』に関するもの、茶色が第一次大極殿に伴うもの、青が平城太上天皇の時代のものです。
そして、中央やや下、黒枠に囲まれた長方形が今回の調査区です。
太目の破線のように、7基2条に並んだ遺構が幢竿の跡だろうと考えられています。
今回の調査では西から5基分が検出されています。

こちらの画像の真ん中、二本のテープで示されているのが、大極殿に伴う南北通路西側溝ですが、今回はサブトレンチ内での断面でのみ確認されています。
そして右側手前の四角い石が敷かれた南北溝と、その奥で直角に折れ曲がった東西溝や、右上の建物の一角が、平城上皇時代の遺構になります。
上の図面とは、上下関係が逆になっているので、何となく分かりにくいです(-_-;)

 幢旗の列ですが、位置的にも大極殿の中軸と合うので、その時代のものとも思えるのですが、断面観察をしてみますと、西宮時代に整地した面から穴が掘りこまれている事が分かります。
この朝庭は大極殿造成に当たって礫交じりの土を敷き詰めて整地し、西宮を造るに当たっても粘土を敷き、更に礫交じりの土で地面を成らしています。
大極殿に伴う移行ならば、下の礫交じり層から掘られている事が、断面で観察できるはずです。
ところで、3×1.5mの楕円形の掘り方が7つ、二列に並んでいるのですが、列の新旧は遺構の切り合い等がないため不明です。

掘り方内には三つの柱の跡が見て取れます。
ここにどのような旗が立っていたかというと、引き合いに出されるのがこの図ですね。
文安というから室町時代の中頃、後花園天皇の時でしょうか?
延喜式にもこれらに関する記述があるので、奈良時代には既にこのような旗やモニュメントが立てられたものと考えられます。
今回と同様の遺構は、第二次大極殿院や、長岡宮大極殿院でも見つかっていて、基底の部分だけが現地で再現されています。
藤原宮内でも同じような遺構が見つかっているはずですが、確か、大極殿に伴っていなかったように記憶しています……うろ覚えσ(^◇^;)

これらの旗を1/3のスケールで復元して、大極殿内に展示してありました。
写真を撮ったのですが、逆光やら人垣で、惨敗な写りでした(^_^;)
後ほど、少しはマシなのをUPできたら致しますm(__)m
以前、飛鳥資料館でも展示していたし、今度の東博のキトラ古墳展でも展示するかもしれません。
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