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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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門のあった場所を示すプレート橿原市の今井町と言えば、大阪のと並ぶ商人の町。
江戸時代には幕府の直轄地で、町の名前にもなっている今井氏は武士をやめて(身分を取り上げられて)町人となり、「大和の金の七割は今井にあり」と言われるほどの商業都市となりました、このイメージが強いでしょうか。

商業都市となるより以前の今井町は、室町時代くらいまでは興福寺の一条院の荘園だったそうで、戦国時代になると一向宗が乗り込んで来て、更には本願寺系の寺院である称念寺が建立されると、この寺を中心として寺内町が出来上がり、環濠集落へと発達して行きます。

称念寺の本堂はもうすぐ解体修理が始まります。環濠集落は、大和の平野部では案外多かったようで、大和高田市や広陵町、田原本町などにも見られます。
ここには寺と共に中心となる豪族居館があり、地元の年配の方がお城と呼んでいるのも聞いた事があります。
確かに、お堀で囲まれた平城(ひらじろ)としても機能していたようです。


さて、戦国時代の今井町は石山本願寺三好三人衆のサイドにつき、大和にも支配を伸ばそうとする織田信長に対抗する事となります。
この頃には、町の周りに土塁で囲み、三重の深い環濠をめぐらせて環濠城塞へと変貌して行きました。

今井町の南西のコーナー部です今回の調査で検出された環濠は、この時代の環濠(旧環濠)の一番外側(外濠)の部分です。
画像の右側には、今井町の鎮守『春日神社』があり、そのすぐ西側を走る道の調査の時に、中濠内濠が検出されています。
調査区内の手前の方に白線で引かれているのが環濠の西の肩の部分で、埋土の様子を見ると、人為的に埋められている事が良く分かります。
これは石山本願寺が信長と和睦したために、今井も信長傘下に下る事となり、武装解除をして土塁を壊し、堀を埋め立てたためだろうと考えられています。

この後にも今井町を巡る環濠は掘られるのですが、この新環濠がいつ出来たのかは文献に残されていないとの事です。
発掘調査では三重の部分と一重の部分が、両方確認されているそうですが、17世紀の後半の絵図にも同じように描かれています。
春日神社境内の南側に、この新環濠が一部復元されています。
新環濠が巡る頃には、今井町は自治都市として「海の堺、陸の今井」と賞賛されるほどの商業都市へと変貌していたはずです。

アンテナに留まるハヤブサここ数年、奈良市の奈良町、五条市の新町、そして橿原市の今井町と、江戸時代の面影を残す町並みの保存と活用が盛んになってきています。
結構だだっ広い奈良町や、街道沿いにズラッと続く新町に比べますと、今井町は案外コンパクトで道も細く入り組み、三者三様個性的です。
町屋を再利用したお店なども少しずつ増えて来て、駅前まで戻らずとも、洒落た雰囲気を楽しみながら食事が出来る場所も出来ました。
それでも奈良町に比べると、まだまだ知名度は低いですねσ(^◇^;)
周囲に更に回れるような観光地がないのが、チョッとネックですかね。
飛鳥からも三輪からもかなり遠い、藤原宮跡や橿原神宮も歩いて行くのは結構大変……
橿原市も八木周辺は一大市街地となっていますが、大和三山なども近くに見え、時にはこのようにハヤブサなども市街地に現れます。
この子は今井町の八幡神社近所の庭木から、向かいの家のアンテナに飛び移り、更に春日神社の方へと飛んで行きました。
 
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