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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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先日の記者発表では、斜面に設けられた石組みを居館の堀の一部かと推定して、それなりに話題になっていた調査です。

今回のメイン調査区…北から桜井市脇本の一帯で調査が始まったのは、昭和59年からだそうで、今までに主な時代として、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の三期にわたる、大型の建物跡の存在が確認されています。
一番有名なのは1次調査で見つかった、7世紀後半の正方位に乗った柱列と、その下層から出て来た5世紀後半の大型の建物跡でしょうか。
日本書紀などの記述によれば、ここには雄略天皇の泊瀬朝倉宮を始めとした大王の宮、天武天皇の皇女の大伯皇女の斎宮などがあったとされ、これらに関わりのある遺構ではないかと話題になって、調査は更に続いているそうです。
現在の成果では、春日神社の南側一帯で検出された建物群や、東西方向の回廊かもしれない柱列などから、春日神社の辺りが遺跡の中心と見られているようです。

今回は相変わらずの道路拡幅に伴う調査だそうですが、いつもよりも北方向に広く開けたお陰で、件の石積み遺構も発見されました。
これが東西方向に30メートルも真っ直ぐに続いていて、すぐ近くに「池田」という字名もあるので、大きな池の護岸かと思われたのですが、池と思しき落ち込み内の埋土からは、水が溜まっていた形跡(有機堆積やら珪藻などの植物プランクトンの検出)は見られず、遺構の底面も60メートル近くに渡ってフラットな状態で掘削されているのだとか……人工的な地形なのは分かりますが、何の目的で成らされたのでしょう(・・?

このように計画的に石は積まれています。石積み遺構は、池の護岸にしても、古墳の拭き石にしてもおなじみですが、まずは裾の部分に大き目の基底石を真っ直ぐに並べまして、縦横に目安となるような目地石をやはり直線に並べて、升目の単位を造って並べて行くという方法を取っています。

池状遺構(水は溜まっていなかったようですが)の上層からは6世紀後半の須恵器が、最下層からは5世紀後半の土器が出ているので、機能していたのは、この一世紀くらいの間のようです。
しかしこの石積み、今のところは北側でも東西の側でも確認されておらず、具体的な機能はまだ何とも言えないようです。

なお、この石積みの南側には、弥生後期の竪穴住居や溝が出ていまして、そこを壊すような形で地面が掘り込まれて、石積みが作られています。
更に南には初瀬川が流れ、遺跡自体はこの河岸段丘の上に乗っているので、水に近い場所として、案外早い内から人が住み着いていた様子は分かります。


それにしても外は相変わらずの暴風雨……ピークは夜だそうで(--〆)
紀伊半島への上陸はなかったようですが、今頃、ここの現場の池状遺構、本当の池になっているのでは(゜_゜)
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