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本日九月八日、飛鳥藤原第148次調査と銘打った、奈良文化財研究所の現地説明会に行ってきました。
昨日の新聞のトップを飾った、大極殿院の南門跡が判明したという調査です。
大極殿と朝堂院とを区切る門で、朝参の時には、この場所に天皇が出御したと考えられています。
どうも私には、大極殿と朝堂を門や回廊で区切ってしまうかが分からないのですが、この藤原宮に限らず、後期難波宮も平城宮第二次大極殿院も長岡宮もこの形をとっています。
平城宮の第一次大極殿院にはこのような門はなく、朝堂院地区とは龍尾壇と呼ばれる段差を設けて区切っています。
それはさて置き、調査区を見回した時の第一印象……基壇が全く残ってない(ーー;)
確かに大極殿や朝堂などの建物は、解体されて平城宮に運ばれていますが、基壇までは取り除きはしないでしょうから、明らかに後世に削平されたものと見られます。
わずかに残っているのは凝灰岩の切石で、これは基壇の南北に付けられた階段の一番下の部分に当ると考えられます。
黄緑色のテープに囲まれた範囲が南門で、そこから1.2メートル張り出した部分に階段が設けられていた事になります。
調査員の方が描かれた復元図がこれです。
南門と大極殿の間の広場は石敷きになっていて、日章、月章、四神などが描かれた幡が立てられていたそうです。
門から東西に伸びる回廊は、礎石の抜き取り穴が検出されています。
この部分も階段かと思ったのですが、この図ではスロープに復元されています。
七間×二間の堂々とした門が在った事を思い浮かべて下さいとのこと。
ところで橿原市というか奈良県は、『藤原京ルネッサンス』なんていうイベントを開催中だそうですが、地元民の私は何とも無頓着で……
元JAの建物に藤原宮の資料室も出来ていて、かつては万葉ホール(市民会館)に置かれていたジオラマが、こちらに移された事くらいは知っておりましたが、昨日くらいから里中満智子さんの作品展をやっているのは知りませなんだ。
まぁ、面白くありませんでしたけどね……おい(ーー;)おいっ
昨日の新聞のトップを飾った、大極殿院の南門跡が判明したという調査です。
大極殿と朝堂院とを区切る門で、朝参の時には、この場所に天皇が出御したと考えられています。
どうも私には、大極殿と朝堂を門や回廊で区切ってしまうかが分からないのですが、この藤原宮に限らず、後期難波宮も平城宮第二次大極殿院も長岡宮もこの形をとっています。
平城宮の第一次大極殿院にはこのような門はなく、朝堂院地区とは龍尾壇と呼ばれる段差を設けて区切っています。
それはさて置き、調査区を見回した時の第一印象……基壇が全く残ってない(ーー;)
確かに大極殿や朝堂などの建物は、解体されて平城宮に運ばれていますが、基壇までは取り除きはしないでしょうから、明らかに後世に削平されたものと見られます。
わずかに残っているのは凝灰岩の切石で、これは基壇の南北に付けられた階段の一番下の部分に当ると考えられます。
黄緑色のテープに囲まれた範囲が南門で、そこから1.2メートル張り出した部分に階段が設けられていた事になります。
調査員の方が描かれた復元図がこれです。
南門と大極殿の間の広場は石敷きになっていて、日章、月章、四神などが描かれた幡が立てられていたそうです。
門から東西に伸びる回廊は、礎石の抜き取り穴が検出されています。
この部分も階段かと思ったのですが、この図ではスロープに復元されています。
七間×二間の堂々とした門が在った事を思い浮かべて下さいとのこと。
ところで橿原市というか奈良県は、『藤原京ルネッサンス』なんていうイベントを開催中だそうですが、地元民の私は何とも無頓着で……
元JAの建物に藤原宮の資料室も出来ていて、かつては万葉ホール(市民会館)に置かれていたジオラマが、こちらに移された事くらいは知っておりましたが、昨日くらいから里中満智子さんの作品展をやっているのは知りませなんだ。
まぁ、面白くありませんでしたけどね……おい(ーー;)おいっ
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きょうてむじんが