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長いタイトルですみません。
たった十年しか王宮として機能していなかったのに、史料に現れる長岡宮の内裏は、都合、三つあった事になります。
延暦八年二月、
“西宮より移りて、初めて東宮に御します”
という記事により、第一次内裏は「西宮」、第二次内裏は「東宮」と呼ばれます。
そして、延暦十二年正月、
“東院に遷御す。宮を壊(こぼ)たんと欲するに縁(よ)ればなり”
「東院」は、左京に遺構が見つかっているそうで、後で言うところの「里内裏」なのでしょうね。
この次の年には平安京へ遷都ですから、既に内裏の解体が始まっている訳です。
ところで平城宮までの段階ですと、内裏は大極殿院のすぐ北にくっついているのですが、長岡宮になりますと、完全に分離します。
この辺、政務の執り方の変化によるのだというのですが、ややこしい話は取り合えず置いておきます。
二つの内裏は大極殿を挟んで西側、東側に配置されていたのですが、「西宮」の遺構はまだはっきりと確認されていないそうです。
地図上で見ると、向陽小学校の辺りになるのでしょうか。
一方、「東宮」は昭和41年に発見されたとの事で、正殿は駐車場になっていますが、築地回廊の場所は公園として保存されています。
さて、今回の現地説明会は、「東宮」こと第二次内裏地区で見つかった東西棟の建物がメインになります。
現場を見た第一印象……なんちゅう浅い遺構だ。
こちらの画像の奥の方、ブロック塀の前の土嚢を積んでいる辺りが現地表です。
そして中央を横切っている畦の上面が、上土をはがした面。
場所によっては、ほんの一掻きした程度で遺構の上面が出ています。
この浅さで良くも残っていたか、ひたすら感心致します。
内裏地区に特有、掘っ立て柱跡が二間×二間で六本、すべて抜き取られた状態で検出されています。
この建物、極低い基壇を持っていたらしく、基壇化粧の側石として凝灰岩のブロックが廻らされていたようです。
これの抜き取り穴の状況や、基壇の様子から、建物は南北は二間で北面に廂がつき、東西方向に七間程度伸びるのではないかと予測がされています。
しかし内裏の脇殿は平城宮にしても平安宮にしても、南北棟が普通で、東西棟の正殿と平行して建てられたのは何か意味があるのだろうとの事、長岡宮はまだまだ分からない部分も多いようです。
現説の後は、予定としては奈良教育大学のシンポジウムに行くつもりだったんです。
ところが、西向日駅に着いた時に時計を見たら12時を回ってる……13時に教育大に着くのは、ほぼ不可能だわ(@_@;)
そういう訳で、その辺をほっつき歩く事に致しました(^_^;)
周辺観光のための地図をもらったので見てみますと、北の方は『元稲荷古墳』を見に行った時に回ったエリアですので、南の方に行く事にしました。
途中でお昼をと思ったのですが、駅の周辺なのに、食事をするところが殆ど無い……(・・?
炎天下をふらふらと歩いてゆくと、ようやくお好み焼き屋さんを発見、そこで腹ごしらえをして聞いてみましたところ、『乙訓寺』まで歩いて五分程度との事、そこからさらに十五分程度で『長岡天満宮』だそうです。
つまりこのお店は既に向日市ではなくて長岡京市、何のために地図がある、しっかり見ろってσ(^◇^;)
ともあれ上の画像は『乙訓寺』……牡丹の名所で有名ですが、今はひたすら油蝉の声ばかり。
そして裏手の小学校で野球の練習をしている声が聞こえてきます。
それにしても、ここの本堂の縁側は、良く風が通ります。
ぼうっとしていたら、お墓参りの人たちが三々五々、やって来ました。
『長岡天満宮』を回って駅に着いた時は既に十六時半、奈良に出て『なら燈花会』でも見て帰ろうかなと思ったのですが、どうせ明日も教育大に行くのだしと、ここで引き上げてきました。
とにかく全身汗だく……とっとと風呂に入りたい(~_~;)