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推定、飛鳥浄見原宮の北西、飛鳥川の河岸段丘上で人工的に作られた池の跡が発見されてから既に12年もたち、調査も今回で6回目となっています。
『飛鳥京跡苑池』というのが遺跡としての正式名称ですが、一部の関係者は別の名前で呼ぶ事もあります……σ(^◇^;)何て?
今までの調査により、池は渡り堤を境にして南北に別れ、北池からは更に北へと水路が延びて、飛鳥川に流れ込んで行くと考えられています。
ただし、検出されたルートと現在の川の位置は離れすぎているので、1300年前には川の位置が今とは違っている可能性もあるようです。
今回の調査は南池の東側の護岸を確認する事がメインで、一次調査で検出した水を放出する石造物や、水を溜めていたと思われる石槽の置かれていた場所や、池の真ん中に作られていた積み石の中島も再検出しています。
これによって、今は橿原考古学研究所の博物館に展示されている二つの石造物を据えていた石なども確認されて、従来の位置からは動いていなかった事が確認され、その周囲に新たな柱の跡も見つかったので、何らかの施設があったと推定されています。
さて東側の岸はどうなっているかと申しますと、自然の断層崖の斜面にかなり大きな石を積んで、3メートルもの高さになっているとの事ですが、現在では飛鳥時代の層位は削られてしまい、古墳時代の堆積層が検出された事から、更に高かった事が確認されました。
このように東側はかなり高いのですが、1次調査の時に出て来た西側の岸は1.3mしかなく、池の中央の石積みの島は高さ60cm程度なので、南池の水深は50cmくらいと考えて良さそうです。
この後の時代、池は徐々に埋まって行き、平安時代には東側では一メートルくらいの土が堆積して、その上に更に石敷きなどを設けて、なおも存続していた事が伺えます。
出土遺物としては、その時代の瓦器碗や土師皿が出土しておりました。
更には『馬養』もしくは『鳥養』と書かれた木簡が一点だけ確認され、池との関わりも色々と推測をされているようです。
そして今回の現説のサプライズは、博物館のマスコットキャラクターの『イワミン』の着ぐるみのお披露目??
何でもイワミンの中に入れる人の身長制限は160cm程度、男子禁制だとか??
若い女性職員が交代でがんばってくれたという話でした( ̄▽ ̄)。o0○
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