×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
日本書紀に見える『白錦後苑(しらにしきのみその)』かといわれて久しい苑池(えんち)は、渡り堤を挟んで南北二つの池に別れます。
北池からは更に北へ向かって80mに及ぶ水路が伸び、それが西に折れ曲がって飛鳥川に注ぐという形を取っていた事が調査で分かっています。
南半分の詳細は、昨年の第7次調査で判明しています。
これらの調査で分かった遺構から作成したのが、上の画像の平面図や模型です。
これにより、中島から池に張り出したテラス状の施設があったと考えられています。
左の二本がその施設に当たりますが、更に並行して二本の柱があった跡が有るようです。
この画像では分かり難いのですが、柱は途中から色が変わっていまして、常に水面の高さが一定に保たれていた様子も窺えます。
ちなみに右側は、堤に埋められている木樋で、ここを開閉する事で北池との水位を調整していたようです。
二棟の掘立柱式建物と、南北方向の柵の一部が検出されていますが、いずれも浄御原期の遺構らしく正方位に乗っています。
池の水は豊富な湧水で確保されているようで、排水は北に向けて行なわれます。
その水路の一部を今回も検出し、構造が分かるようになりました。
上下二段構造で、上段の幅は13m、下段の幅は6mになりますが、上下を分けるテラス部の構造が、西側と東側では違っています。
画像の奥が東側ですが、石を並べて階段を造っています。
西側は砂利敷きですが、階段はありません。
水路の西側の高くなった土地でも、建物跡が見つかっています。
ここは土を盛って整地してあり、今現在も川の側から見ると高くなっているのが分かります。
宮地は南東の微高知に建設され、ここは川の段丘を利用して造られた池のある庭園です。
三年前に史跡・名勝地に指定され、いずれは指定地を全て公で買い上げて、苑池の様子を再現した公園を造る計画だそうです。
PR
この記事へのコメント