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京都府木津川市の『馬場南遺跡』の調査は、京都府埋文センターと木津川市教の合同で行われています。
この調査も例に漏れず、事前開発に伴うもので、府の埋文センターの調査地では、奈良時代中期から後期にかけての建物や、川跡が見つかりました。
これは元々自然の川だったようですが、西の岸を埋めて土地を広げたり、途中に堤を造って水を溜めたりした様子が見られます。
この川の斜面全体に張り付くように、8千枚にも及ぶ土師皿が投棄されていたのは、新聞やニュースでも大きく取り上げられていました。
これらには焦げた跡があるので、燈明皿として使われたのは確かですが、さて、ここには何があったのでしょう?
同じ川の中では、万葉集に見える歌が書かれた木簡(1/3程度残っています)も出土していますが……
この範囲で出てきた建物は掘立柱で、瓦も伴っていません。
ところが市教委で北側の藪の中にトレンチを入れると、なんと、礎石を伴なうお寺の基壇が出てきました。
廂がない、外側の柱だけで構成された本堂は、唐のあまり大きくない寺院で用いられたスタイルだそうで、遣唐使によって情報がもたらされたであろう事は想像できます。
この堂は火事で焼け落ちたようで、基壇の土や装飾に使われていた瓦は、比熱して赤くなっていました。
そしてそこにはやはり被熱して土師化した、四天王の塑像らしき破片が見つかっています。
しかしこの寺の記録は一切ないそうで、誰がどのような目的で建立したのかは分かりません。
時代からして恭仁京遷都の頃、聖武天皇の勅願の可能性も、この場所に勢力を持っていた橘氏の私寺であった可能性も指摘されています。
ところで、この寺の名前は……という訳で、遺物編に続くのでした(^^ゞ
この調査も例に漏れず、事前開発に伴うもので、府の埋文センターの調査地では、奈良時代中期から後期にかけての建物や、川跡が見つかりました。
これは元々自然の川だったようですが、西の岸を埋めて土地を広げたり、途中に堤を造って水を溜めたりした様子が見られます。
この川の斜面全体に張り付くように、8千枚にも及ぶ土師皿が投棄されていたのは、新聞やニュースでも大きく取り上げられていました。
これらには焦げた跡があるので、燈明皿として使われたのは確かですが、さて、ここには何があったのでしょう?
同じ川の中では、万葉集に見える歌が書かれた木簡(1/3程度残っています)も出土していますが……
この範囲で出てきた建物は掘立柱で、瓦も伴っていません。
ところが市教委で北側の藪の中にトレンチを入れると、なんと、礎石を伴なうお寺の基壇が出てきました。
廂がない、外側の柱だけで構成された本堂は、唐のあまり大きくない寺院で用いられたスタイルだそうで、遣唐使によって情報がもたらされたであろう事は想像できます。
この堂は火事で焼け落ちたようで、基壇の土や装飾に使われていた瓦は、比熱して赤くなっていました。
そしてそこにはやはり被熱して土師化した、四天王の塑像らしき破片が見つかっています。
しかしこの寺の記録は一切ないそうで、誰がどのような目的で建立したのかは分かりません。
時代からして恭仁京遷都の頃、聖武天皇の勅願の可能性も、この場所に勢力を持っていた橘氏の私寺であった可能性も指摘されています。
ところで、この寺の名前は……という訳で、遺物編に続くのでした(^^ゞ
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