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- 2008.06.15 何処もキャラクター流行?
- 2008.03.17 鳥形土器を探して
- 2008.02.03 明日香は雪
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評判が良ければ、この先も博物館のマスコットキャラクターとして、存続すると聞いています。
この画像が、ミュージアムショップで発売中のマグネットで、パソコンプリンターを利用した手作りだとか。
最初は一番左の正面を向いて真っ直ぐ立っているバージョンしかなかったのですが、右の手を上げた姿が加わり、ついには横向きも出来たようです。
梅雨の中休みとあって、このところこちらも暑いです。
あちらこちらで橿原市の花のクチナシも咲き始めて、芳香を放っています。
この写真は、博物館の入り口の物です。
博物館の次の展示は『大和を掘る』、七月の後半からとなります。
この前、本ページに、鳥形土器に引っかかっていると書きました。
それに伴ない、近つ飛鳥博物館に『大阪の古墳時代を考える』という企画展を見に行き、『古墳時代渡来文物の新研究』という講演を聞いてきました。
こちらで絶対に、大阪で出土した鳥形土器の例が見れるはずと思って出かけたのですが、案の定、四つほどの例が展示されていました。
これによると、鳥形土器は渡来人によって韓半島から持ち込まれたようなのですが、移入当時から日本化されたようで、土師質の物は5世紀以降は見られず、この後は須恵質の物、鳥形はそう(瓦偏に泉…字が出ない(T_T))などに変化するそうです。
大阪府の文化財センターの発掘した池島・福万寺遺跡(東大阪市・八尾市)からは、この画像のような鴨と思われる水鳥をリアルにかたどった土器が出土しています。
私が現在探している例は、時代的にもこいつが割り合いに近いようなのですが、底部を覗いてみても、脚部があったのかどうか分かりません。
そして、口も開いていないようです。
他にも二例の遺物が展示されていましたが、こちらは八尾市の小阪合遺跡で見つかった土師質の鳥形土器です。
時代は古墳中期、頭は完全に飾りと化していて、当然ながら口は開いていません。
液体を入れる容器として使われたようですが、注ぎ口は背中に開いた穴だけのようです。
どうやら韓半島で出土する鳥形土器は、背中に水を入れる大きな口が付き、注ぎ口になる小さな口は尻尾の辺りにあったようですがが、日本の物は首の側についていたようです。
こいつは寝屋川市の讃良郡条里遺跡から出土した、やはり須恵器の鳥形土器です。
これも小阪合遺跡の物のような、長い首が左側についていたと思われます。
首の下に小さな穴が開いていて、ここから水を注いだようで、これがやがて“はそう”に鳥の首や尾や羽の付いた形へと変化して行くようです。
いずれにしても、こいつが何に使われたのか良く分かりません。
墓に埋葬した例もあるのですが、ここにあげた三例はいずれも古墳には伴なっていないようです。
なお、今回の企画展は特に断っていない展示物以外は、写真を撮ることが出来るので、臆面もなく写して参りました。
4月13日まで行われていますので、お近くの方は是非ともお出かけ下さい。
ただ今、隣接の『近つ飛鳥風土記の丘』は梅の花の見頃です。
詳しくは下記まで↓
http://chikatsu.mediajoy.com/2008_spring/index.html
それに伴ない、近つ飛鳥博物館に『大阪の古墳時代を考える』という企画展を見に行き、『古墳時代渡来文物の新研究』という講演を聞いてきました。
こちらで絶対に、大阪で出土した鳥形土器の例が見れるはずと思って出かけたのですが、案の定、四つほどの例が展示されていました。
これによると、鳥形土器は渡来人によって韓半島から持ち込まれたようなのですが、移入当時から日本化されたようで、土師質の物は5世紀以降は見られず、この後は須恵質の物、鳥形はそう(瓦偏に泉…字が出ない(T_T))などに変化するそうです。
私が現在探している例は、時代的にもこいつが割り合いに近いようなのですが、底部を覗いてみても、脚部があったのかどうか分かりません。
そして、口も開いていないようです。
時代は古墳中期、頭は完全に飾りと化していて、当然ながら口は開いていません。
液体を入れる容器として使われたようですが、注ぎ口は背中に開いた穴だけのようです。
どうやら韓半島で出土する鳥形土器は、背中に水を入れる大きな口が付き、注ぎ口になる小さな口は尻尾の辺りにあったようですがが、日本の物は首の側についていたようです。
これも小阪合遺跡の物のような、長い首が左側についていたと思われます。
首の下に小さな穴が開いていて、ここから水を注いだようで、これがやがて“はそう”に鳥の首や尾や羽の付いた形へと変化して行くようです。
いずれにしても、こいつが何に使われたのか良く分かりません。
墓に埋葬した例もあるのですが、ここにあげた三例はいずれも古墳には伴なっていないようです。
なお、今回の企画展は特に断っていない展示物以外は、写真を撮ることが出来るので、臆面もなく写して参りました。
4月13日まで行われていますので、お近くの方は是非ともお出かけ下さい。
ただ今、隣接の『近つ飛鳥風土記の丘』は梅の花の見頃です。
詳しくは下記まで↓
http://chikatsu.mediajoy.com/2008_spring/index.html
晴れていたら、朝から奈良市に出かけて、『鹿寄せ』から始まって、手向山八幡宮の『お田植え祭り』、二月堂の『星祭』に豆まき、夕方には春日大社の『万燈篭』、興福寺の『鬼追い式』と、一日楽しむつもりでいたのですが……ボタ雪の降るのを見て、その気は完全に失せてしまいました(/_;)
昼前には雨に変わり、道路の雪だけは何とか融けたので、一日家にいるのも嫌だったので、飛鳥資料館に行って来ました。
冬季企画展『飛鳥の考古学2007』のタイトルで、昨年の飛鳥地域の発掘成果の紹介を展示していて、本日が最終日だったので出かけたのですが、どういう訳か本日は無料観覧日ですと受付で言われました。
招待券もあったのですが、まぁ、ラッキ~というところでしょうか(^^ゞ
紹介されていた遺跡の幾つかは、現地説明会に実際に行った所だったので、少しばかり懐かしいような気も致しました。
割合に最近の発掘成果に基づいた、飛鳥の宮地を中心としたジオラマで、まだ調査の及んでいない所は大胆な仮説に基づいて復元したとか云々。
さて、この画像の前面にあるのは、飛鳥浄御原宮のエビノコ大殿です。
宮はその右手(北側)にかけて整然と続いています。
奥の右手の伽藍は川原寺、左手は橘寺です。
では、橘寺の前にあるのは、一体どなたの御住まい??
浄御原に接しているとすると、相当な地位の人の宮地となるのでしょうか。
ここでの注意点は、ご覧の通り、正方位に乗っていない事です。
つまり浄御原よりも前の時代の建物という事なのでしょうか。
それにしても、この写真では分からないのですが、正殿の大きさが浄御原の正殿よりも大きい……エビノコ大殿と同じくらいあるのです。
もしかして、蘇我馬子の嶋宮??
それとも、上宮王家の橘宮???
何やら分からないけれど、本日こちらで見た展示の内で、私的には一番ヒットしたのがこいつでしたσ(^◇^;)