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飛鳥寺の西側には何があったのでしょう?
『日本書紀』によると、『槻樹(つきのき)の広場』があったのだそうです。
以前の調査でも、石敷や溝が見つかっています。
2011年調査
2013年調査
そして今回も、石敷は検出されていますが、余り残りが良くありません。
ところがここに予想外の、建物の跡が二棟分出て来ました。
明日香村教育委員会の発掘調査技師によると、槻の根っこや切株は期待しているけれど、建物の存在は想定していなかったという事です。
こちらが西側の建物跡です。
この画像の奥、右側に見えている三角の瓦屋根が飛鳥寺の御堂です。
飛鳥寺寄りになる東側の建物は、この調査区では東西2間分しか検出していません。
しかし、更に東側(説明を聞いている人たちの更に後方です)に開けたトレンチで東端の柱跡を見つけています。
そして、以前に調査した地区で南側の柱列を既に検出しています。
左側の少し薄く印刷されている部分が以前に調査した地区で、右側の濃い線で表されている地区が、今回の調査地区になります。
赤い丸が建物の柱跡です。
二棟とも桁行(東西)7間、梁行(南北)2間の長細い建物です。
柱間がやや不揃いで、2.4~2.7mで並んでいます。
柱が抜き取られているためか、検出した穴の形や大きさも33~116cmと様々です。
西側建物でいくつかの柱穴を半裁したところ、深さは30cm程度になります。
西側(先の図面では上)建物の北側(右側)柱列の途中に、三連で並んだ柱穴があります。
この真ん中の穴は柱列には載っていますが、柱間に合わず、対応すると見られる穴もないようで、建物に付随するか否かは不明だという事です。
こちらも半裁した柱穴です。
埋土が赤く見えるのは、焼け土が混じっているためだそうです。
穴の横や手前に見える石も、火を受けているようです。
今回見つかっている石敷きは、これらの柱穴を埋めた後に敷かれたという事です。
このようにやや雑な作りで、撤去された後は再び石敷きの広場に戻された事からも、短期間だけ使われたような、仮設の建物だった可能性を指摘されています。
いずれにしても、この遺跡で建物跡が出て来たのは今回が初めてで、年代を特定できるような遺物の出土も少ないそうなので、飛鳥時代に建てられたものとしか、確実な事は言えそうにありません。
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