- 2025.01.18 [PR]
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- 2007.01.15 文豪てむじん
- 2006.12.26 何やら……
- 2006.11.16 後半戦……?
- 2006.11.11 三国史記……三国志じゃなくて
- 2006.11.09 概ね半分
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- 2006.10.22 脇役はいつも態度がでかい(^_^;)
- 2006.10.17 卜占は
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都合により、こちらでの連載を休止する事と致しました。
大変勝手ながら、近日中に文章を撤去いたします。
このページは別の形で利用したく思います。
今しばらく、ごきげんようm(__)m
『逡巡』 ; しりごみすること。決断が着かないでグズグズすること。ためらうこと。また、その様。
と、辞書にあります。
何にためらっているのかと申しますと、この頁を消去するか否か。
タイトルがとにかく嫌い……同じタイトルの変な歌があるらしい?(未聴)
どうしてためらっているのかと申しますと、ブログペットも消えるから。
本元のブログの方では、日記書いてくれないし……既に一匹いるし。
まあ、そのうち何か別のものに変更しましょうっと……タイトルは絶対に変えてやる!!
半月ほどこちらのブログを放って置いたところ、私以上の悪文書きが投稿してくれていたようです。
まあ何せ、文章を教えているのが私だという訳で、立派な悪文になっています。
いっそうの事、こいつに任せて本業の方に取り組もうかしら……などと思うけれど、こいつは話を続けようという意志はないからな(-_-;)
ああ、でもやっぱり、このタイトル嫌いだわ……設定も全面的に変更して(日嗣皇子と藤原朝臣某の性格の悪さは変わらないと思うけど)、タイトルももう少し捻って、いずれは書き直しセにゃならんのだしなぁ……
これから後半戦?
話は大きく動くんだが、どうもやる気が起きない……(-_-;)
そろそろ本気で、ここ閉じる事を考えようか?
古代の朝鮮半島に百済・新羅・高句麗の三国があった事は、高校の歴史の教科書にも出てくるとおもいます。
辰韓、弁韓、馬韓、楽浪郡、帯方郡……?なんて更に古い時代も、加耶諸国も取り敢えずは置いておきまして、六~七世紀の話です。
私は新羅だけをどういう訳か、シンラと昔から呼んでいて、ルビを振るにもシラギと振りにくいという変なくせを持っています……他の二国をペクチェとかコグリョと呼ぶ事は滅多にないんですが。
この三国の歴史を書いた史書が『三国史記』で、高麗時代の十二世紀に成立しました。日本でいえば平安時代の末、この時代に書かれた奈良朝以前の歴史を考えますと……どこまで信じて良いんでしょうσ(^◇^;)
『百済の変』とか『黄山』とか言っているのは、新羅と唐によって百済が滅亡した時の戦乱の事です。
西暦660年、新羅王金春秋(武烈大王)は唐との連合を図る事で、百済の王都を落とします。そして百済王を始めとした王族の殆んどは唐の捕虜となり、ここに百済は滅亡します。
王都(泗沘)に敵の軍を入れまいと、最後の激戦が黄山で繰り広げられた事は、『新羅本紀』に見えています。
この後、百済の再興を願う人々が、日本に亡命(人質とも見えるが…)していた王子の豊璋の帰国を願い出て、更なる復興の戦いが起こる事は『日本書紀』が一番詳しく記しています。
この頃の新羅王は金法敏(文武大王)、真鳥は子供の頃にこの人と会った事があると回想している訳です。
金法敏についてはこちらを→ http://www.geocities.jp/sen_2jp/shinra.htm
ついでに金春秋はこっち→ http://www.geocities.jp/sen_2jp/tonhe.htm
ペースダウンしています。
その内、止まるんじゃないかな……(-_-;)
書いた当時、何となく変化をつけたかったらしく、このように途中に『間章』なる文が入っています。
ここで一人称語りをしている百済王真鳥は、決して実在人物ではなく、モデルになっている人物も特におりません。
ただし、この人の父親や祖父母に当る人は、実在の人物として設定できます。
まあ、私が時々やる、勝手に系図を書き足した……というやつですねσ(^◇^;)
さて、この先は如何相成りますやら……とっとと、次の話の準備しなけりゃ。
ここで『大道』と言っているのは、メインストリートの事ではなくて固有名詞です。
推古天皇の二十一年十一月、「難波より都に至るまで大道を置く」とありまして、これは後の『竹之内街道』の事でだろうと考えられています。
難波の宮の中心線の延長上に、幅19メートルにもなる古代の道の遺構を検出した事例もあり、これが『日本書紀』に見える『難波大道』の可能性は極めて高いとされています。
難波から竹之内峠を超えて大和に入った道は『横大路』となり、藤原京の三条大路につながります。
古代から近世、現代にまでこれらの道は残っています。
特に『横大路』は橿原市や大和高田市内を貫くように残っていて、今でも生活道路として利用されています。
何せ、私にとっては通勤路ですからσ(^◇^;)
切れの良いところでとめたので、今日は短いです(^^ゞ
さて、チョロチョロと藤原史という大舎人がこの先も出てきますが、この人はご存知のように藤原鎌足の息子です。
『日本書紀』にはこの字で出てきますが、『続日本紀』では不比等の字を当てていますし、歴史の本などにもこの表記が一般ですので、こちらの方が有名でしょう。
『日本書紀』への初出は、持統天皇三年(うめぞー的に言いますと日嗣皇子称制三年)二月に判事に任命された時で、ここでも「直廣肆藤原朝臣史」となっています。
直廣肆は大宝律令では従五位下相当、ようやく参内が敵う階級です。
この人が若い時に大舎人だったという記録は全くなく、これを最初に言い出したのは、私の記憶では梅原猛氏か上山春平氏のどちらかです。
あの有名(?)な稗田阿礼は藤原不比等のペンネーム(?)という説ですね。
古事記の序に、稗田阿礼は二十八歳の大舎人と書いてあるところから、天武天皇の崩御した時、やはり二十八歳だった不比等が怪しい……とか何とかσ(^◇^;)
稗田阿礼かどうかは兎も角、大舎人(後には内舎人に代わる)はエリートへの入口みたいな役職だったので、かなり無難な線ではないかと思っています。
息子も孫も、内舎人から出世した人が多いですしね。
「卜(ぼく)」も「占(せん)」も占いですが、鹿の肩甲骨などを焼いて吉凶を占うのは、本来「卜」の方です。
中国では殷の時代より行われていました。
あらかじめ薄く削っておいた獣の骨(亀の甲羅も使用)に文字(甲骨文字)を刻み、そこに焼いた火箸や木の枝などを押し当てて、入ったヒビで占いをしました。
殷墟より多量に出土したこの占いに用いられた遺物で、文字の研究も一段と進んだそうです。
日本では弥生時代の遺跡からも、この鹿卜(ろくぼく)の遺物は出土していて、万葉集の東歌(あずまうた)にも「占へ肩焼き」という言葉が見えるように、ある程度の時代まで習俗として残っていた事が窺えます。
「神祇が久々に亀の甲などを焼いて」と志貴皇子がぼやいていますが、鹿卜をさらにヴァージョンアップさせたのが亀卜(きぼく)です。
これは神祇官の卜部(うらべ)の御家芸で、平安時代に陰陽寮の式卜(しきぼく)が盛んになっても、宮中では時たま行われていたそうです。
どのくらいの時代まで残っていたのかは、不勉強でチョッと分かりませんが(-_-;)
時々、この亀卜の方法を勘違いして、亀の甲羅をそのまま火にかけて割れ方を見るというようなマンガやイラストを見かけますが、それは明らかに間違いです。