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大して書く記事もないので、画像だけでもσ(^◇^;)
書く事がないのではなく、書くべき知識がないと言うべきでしょうか、平たく申しますと詳しい説明が出来ません。
とりあえず『独舞』だそうです。
美人が激しく軽やかに舞っておりました。
こんな感じで、明日香村はかなり頑張っています。
とにかく、頑張ろう中南和……(^。^)
予断ながら、時空の役者さんたち、この催しがなければJR万葉まほろば線の古事記ガイド列車に乗り込んでのお仕事だそうですが、この日は別の方々にバトンタッチして、こちらに参加したのだそうです。
JRの方は、十二月九日までなので、その内に機会を作って乗りの行かねばと思っております。
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あまり広範にPRをしていなかったのか、単に私が見落としていただけなのか、知ったのは20日の当日になってから。
それにしても、30周年の時のシンポジウムに行った記憶もあるのですが、それからもう10年たつんですね……
それはさて置き、初日は「東アジア歴史文化シンポジウム」が中央公民館で行われ、女優の中野良子さんや、映画監督の河瀬直美さん、京大名誉教授の上田正昭先生が、対談や基調講演を行われたとの事。
11時から高松塚古墳の前で中野良子さんも交えて、飛鳥美人の撮影会をするという事ですが、こちらは初っ端から諦めました。
何せ、あそこは駐車場が限られているし、撮影会と銘打ってしまうと、私のような物見遊山には、力入りまくりのカメラ壮年(中和の催しでは、小僧はあまり見た事ないです?( ・◇・)?(・◇・ )?)にゃ太刀打ちできませんわ……
巡行列が飛鳥寺に到着したのは14時半くらいです。
修学旅行の女子高校生たちが、御寺の見学をしている時に重なったので、チョッと弾けた撮影会が始まりました。
やっぱり一番人気は、飛鳥美人に扮したり、伎楽の仮面をつけた劇団の俳優さんたちですね。
また記事が長くなりそうなので、それらの写真はまた次の記事でm(__)m
第二部は、現代ファッションに時代衣装のエスプリを加えてのショーでした。
ヘアデザインとモデルは専門学校の学生さんたち。
素人さんながらも、スタイル抜群の美人が多いです(^_^)v
チョッとハニカミぎみのところも、可愛かったです。
しかし、ヘアデザイン担当の男子らは、どうしていずれも同じポーズで立っているんだ?
モデルの女性達も、このような丈やスタイルを着馴れているせいか、自然に見えていましたし?
山口先生の万葉衣装、ここ最近はとても評判が良いそうで、生地や素材を探すのも一苦労になってきているとか。
昨日に拝見した女性装束の半臂なども、帯を仕立て直しているようでしたが、模様のはぎ方など、かなり難しそうです。
織りだけでなく友禅や縮緬などもさりげなく使って、ゴージャスに仕立て上げているのも必見。
日本画ばかりじゃマンネリ気味よと、時々囁かれてしまうこちらの美術館(文化館?)、ダブローの展示だけではなくて、このファッションショーのような活動的な催しも、多々行っているそうです。
この日も野外ステージでは、地元で芸能活動をしている方々が出演されていました。
これからも『奈良県立万葉文化館』のHPを要チェックです。
衣装の製作者は香芝市で洋裁教室を開いている山口千代子先生だそうで、ここ最近では平城遷都1300年祭や、平城京天平祭の衣装も専ら担当しておられる方です。
時代衣装まずは、高松塚の女性らの衣装から始まり、一般庶民の服装はという事ですが……
右の稲束担いだ青年は良いにしても、真ん中の写経生や左端の女孺らしき女性は、どうして白衣なのでしょう?
一応官人ならば、官位に則した色の官服であるべきかと思うのですがn(ー_ー?)ン?
こりゃ、最後に全員集合した時の画像ですね。
一番手前の衣装、青になってしまいましたが、実際は濃紫でして、一位じゃなけりゃ親王という事になりますが、モデルの青年らは知った事ゃないって感じですね(~_~)
この後に女性の装束が何人か続きましたが、とりあえずそちらは割愛……妙にピンボケが多いので(^_^;)
ところでモデルが専門学校の学生さんたちなので、女性の場合は髪の毛の色が明るい方が多くて、そこに髻の部分だけ付け髪をしているので、何となく気になり始めると、そちらにばかり目が行ってしまって……(゜_゜>)
無料展示コーナーには、これまで再現した衣装も多数、飾られていて、そちらも拝見してきました。
万葉時代の衣装の再現と言われていましたが、やはり現代の素材を用いていますので、完全に有職故実などに則っている訳ではありません。
既製の素材をそのようなイメージに組み合わせて、所々には遊び心も見える衣装に仕立てられていたように思えました。
でも……山口先生の好みは、一見したところ大柄と大柄を組み合わせるような大胆な物も多いようです。
正倉院宝物や法隆寺などに残る奈良時代くらいの布や、仏像の装飾に見える文様などをイメージされているのかもしれませんが、何となくあちらこちらに目移りがしてしまって……まあ、好みの問題なのでしょうけどねぇε-( ̄ヘ ̄)┌
第二部はまた、記事を変えましてm(__)m
私もこの例に漏れません。
そういう訳で、取って置きの一品?!
『水入り』だよという鳴り物入りで、案外安く購入したのですが、私が気に入ったのは、むしろファントムだという事。
このように、かなりはっきりしたピークが見えています。
透明な水晶が好みという方も多いと思いますが、私は相変わらずインクルージョンが好きで、それによって生じる現象も好きです。
かくして毎年ながらに、小汚い結晶が増えて行く……( ̄▽ ̄)。o0○
ところでTwitterなんぞ始めたのですが、案の定、こちらの更新に足かせが掛かっているような気が致します。
とは申せ、何を積極的に呟きたい訳でなし……
もう少し、執筆の方が軌道に乗れば、呟く事でもぼやく事でも生じるとは思うのですが(~_~;)
とにかく、何所からでも良いから、さっさと書き出すしかないかな。
後で編集が容易なのが、ワープロソフトの強み(*^^)v
こちらの神社、歴史的な背景はやたらにあるのですが、現在は奈良町の鎮守社という存在なので、お祭りも観光的な色合いよりも地元のお祭りという印象がかなり強いものです。
十二日に宵宮が行われ、十三日の午前中に神事、正午よりお渡りが行われると聞いておりました。
昔はかなり大規模なもので、絵図には馬に乗った神職なども見えているようですが、今は奈良町らしく(?)人力車を頼みまして、かなり長い道のりを練り歩くようです。
そのような訳で神社に戻って来るのは、十五時前くらいになるそうで、その時間を目掛けて出かける事に致しました。
そしてまさに十四時過ぎくらい、遠くから太鼓やら笛の音がかすかに聞こえてきました。
暫らくするとバス通りをはさんだ南側の路地から、諸役を先頭にお渡りの列が近づいて来ました。
そういう訳で、詳細は良く分からないので、画像を何枚かあげて見ます。
神職の方々も人力車ですが、お稚児さんも人力車に乗って、お父さんやお母さんが脇に付き添って歩いておられました。
かなりの距離を歩くようで、幼稚園くらいの子供さんには、チョッと可哀想との配慮なのでしょうけど、親御さんも大変です(^_^;)
伶人の方々が鳥居をくぐると、人力車の人たちは鳥居の前で下車して続き、最後に神様の乗っている神輿も担がれて、神社の中に入ります。
その辺りの画像は、また記事を変えまして……
続くσ(^◇^;)
そして、またも散在して来ましたσ(^◇^;)
その辺の光物は、気が向いたら、どこかに上げましょうっと。
ところで今日は、『京都学生祭典』の日に当たっていたようで、東山三条に着いたところ、地下鉄の駅にはポスターが連々と貼られ、パフォーマンス装束を身に着けた若い人たちが歩いていました。
そして平安神宮の参道では、祭典の開始宣言の真っ只中。
多分、この後、学生たちのパフォーマンスが続いたと思われます……が、私はみやこめっせの一階の会場でうろついておりました。
『石ふしぎ大発見展』の京都ショーと日にちが重なる事が多いので、やっている事は知っているのですが、どういう内容なのか殆ど知りません。
まあ、学生の方々のお祭なので、若い人たちの交流の場として楽しめれば良いのかな。
観光客が見ているというよりも、学生さんや家族の方々が見物しているという感じでした。
そして会場を出た18時前には、何処も撤収に入っていて、平安神宮の前辺りで照明をデザインして、チョッとしたカフェをやっていたので、そこで少しだけ休憩して帰って来ました。
それにしても京都行きのバスに乗ったのですが、渋滞が凄くて……地下鉄で帰るべきだったかなぁ(゜_゜)
駅に着いたら、京都タワーが奇妙な色でライトアップされていて、近鉄入り口の前辺りで、何人もの人が写真を撮っていたので、私もそれに倣って来た次第です。
何色かバージョンがあるのかな?
京都には、あまり行かないから良く分かりません(・_・;)
第三者には何の事やらさっぱり……という内容も多々。
こういう方々は、スマートフォーン経由なのかな?
私はその手の端末を持っていないし、携帯電話の操作も苦手なので、多分、パソコンをオンラインにしている時しか、当分は利用しないだろうなぁ。
そもそも、携帯からのツイートって、どうやるのか……ヘルプを参照しても良く分からない(*_*;
ところで今日は『橿原夢の森フェスティバル』を少しだけ(捨てられたペットの里親募集コーナーくらい)眺めて、その後は相変わらず『cafeことだま』で駄弁っておりました。
猫談義やら、大河ドラマの話をしていて、またNHKで数時間枠の歴史ドラマを制作している云々の話になりまして、この辺の時代の大まかな説明をしておりました。
延暦八年の衣川での官軍大敗戦の後に、征夷大将軍に任じられたのはという話になりまして、ここで見事に間違えた事を言ったような……
延暦13年に征夷大将軍として任じられるのは、大伴弟麻呂であって駿河麻呂ではありませんσ(^◇^;)
まぁ、適当に話をしていたので、特に奇異には思われなかったでしょうけど。
そしてその副将軍に任じられたのが、かの坂上田村麻呂です。
やっぱり私の意識の上では、この時代も東北サイドからモノを見る傾向が皆無です……
前九年や後三年の役の場合は、もう少し、陸奥サイドにも目が向くんですけどねぇ(゜_゜>)