×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
http://www.nara-np.co.jp/20121005094457.html
最初はきっと混雑するでしょうから、少ししたら覗きに行こうかなσ(^◇^;)
JRで奈良や天理の方に行くって、現地説明会などがある時くらいですから、私としては滅多にない事です。
差し入れはアーモンドパリッシュかな……衣装担当のMさんでもいてくれれば渡すのですけど、俳優さんたちは電車に乗り込まなければならないでしょうから(゜.゜)
まぁ、明日からですから、誰か乗った人に聞けば良いか。
ちなみに明日と明後日は御所の鴨都波神社の、秋の大祭のはずです。
気が向いたら夕方から宵宮に出かけましょうか。
ススキ提灯の実物、実は見た事がないのでσ(^◇^;)
『石ふしぎ大発見展』は明後日、行く事になるかな。
とりあえず明日は、『橿原夢の森フェスティバル』でも覗きに行きますか。
それこそ、歩いてでも行ける距離ですから( ̄▽ ̄)。o0○
PR
アカウントの承認は済んだようですが、最初のページの様子からして何が何やら良く分かりませんσ(^◇^;)
おまけに、時々、訪問する知人のページの表示まで若干変わっている……?( ・◇・)?(・◇・ )?
何となく、初っ端から鬱陶しいなぁと感じるのが、ユーザーの紹介のタブ……お奨めとして、有名人ばかりが並んでいるのも、チョッと嫌かも(・.・;)
何せ、一言もツイートしていないのですから、表示が変わるわけもありませんけれど。
このような有様でして、最初に何か呟くまで、さて、どれだけの時間がかかるのやら……
何もしないで放っておくと、そのうちに消滅するのかな?
まぁ、余裕が出来れば、何か書くでしょう(ーー;)
アーモンドスライスたっぷりの別バージョンとして、クロゴマたっぷりの「ゴマパリッシュ」(ゴマせんべいと書いてありますね)も時々あります。
何でも、注文が入ると焼くそうで、運がよければ入り口カウンターにて販売しています。
画像の手前の小さめの袋は「キャラメルラスク」
これはまた別の事務所で焼いていて、これは初めて購入しました。
何れも美味です(v^ー°)
またどこかのアホが、診断メーカー何ぞで遊んでおります。
うめぞー帝は醜い暴君です。「性欲禁止令」と「プリ詐欺撮り禁止制」を敷き、国民から蔑みの意を込め「好色帝」と呼ばれます。うめぞー帝が国を治めた結果、その国が宇宙統一しました。 #あなたが皇帝になったー http://shindanmaker.com/276262
これは“うめぞー帝”ではなく、“今皇帝”という御仁です?( ・◇・)?(・◇・ )?
こういう事したいなら、いい加減、 Twitterにでも登録すりゃ良いものを……と我ながら思う、今日この頃(-_-;)
しかし、やっている友人何人かに聞くと、
「ブログ始めたら、HPの更新しなくなったんよね。それで、Twitter始めたら、ブログすら更新しなくなったんよ」という具合に、異口同音のご意見(゜_゜)
私も絶対、ありそうだわ……σ(^◇^;)
またもや診断メーカーとやらで遊んでおりました。
先日と同じヤツ……
うめぞーの精霊は中年男の姿、冷静沈着な性格で本来の姿は獅子です。雪を操り、戦いでは正々堂々がモットーです。貴方の事を守ると誓っています。 http://shindanmaker.com/276238
誰でしょう、うちで言うと……藤原縄麻呂辺りかなぁ?
いや、間違っても、あの家の連中に“正々堂々”を求めるのは酷というもの……(ーー;)
先日と同じヤツ……
うめぞーの精霊は中年男の姿、冷静沈着な性格で本来の姿は獅子です。雪を操り、戦いでは正々堂々がモットーです。貴方の事を守ると誓っています。 http://shindanmaker.com/276238
誰でしょう、うちで言うと……藤原縄麻呂辺りかなぁ?
いや、間違っても、あの家の連中に“正々堂々”を求めるのは酷というもの……(ーー;)
ただ今考え中のプランは、200枚程度(400字詰め換算で)の短さで、軽いノリの話を書こうかという事です。
いつものように野郎の一人称語りで、今回は何とな~く、藤原種継かな~、と思っています。
でもこの御仁、表面的には軽いけど、実は決して軽薄ではない、むしろ大胆に割り切るような人かもしれません。
そこで軽くなってもらおうとしているキャラクターは、うちで一番のいじられ役、山部王だったりします……既に難題の兆しが(・.・;)
この御仁に河内行幸の時、かなり目立つ事をやってもらおうと考えているのですが、さて、この時代、やはりこういう事は上級公家や皇族のたしなみの一つだったんだろうかと、ここでまた疑問が湧いて来ました。
これに対して父親の白壁王は、自分も若い頃には皇族官人としてやった事があるし、高野女帝ですら皇太子時代に人前に立ったのだから、決して珍しい事ではないなどと言っております……私が言わせているだけですがσ(^◇^;)
それにしても、幼少時は南山背の田舎で文武両道とか言いながら、史部というよりも武官の方が遥かに通りの良い、母方の祖父や叔父に囲まれて育った(という設定の)山部王が、いったいいつ、こんな事を教わったというか練習したんでしょう。
やっぱり、任官して内舎人になってからかなぁ……大学で教えてもらう訳ない類だし(゜_゜>)
時に、この何日かの降って湧いたような話題に、平城宮跡の第一次大極殿院の朝堂院地区(しかるに朝庭か)をコンクリート舗装するとか何とか、またも勝手に県や国が説明どころか討議もなしに決めたとか。
思わず、「今は昭和四十年代か?!」 と叫びたくなりましたわ。
常識のある人ならば反対するのは当たり前。
平坦に見えて、実は起伏のある土地、殊に大極殿院は舌状台地の上に乗っているので、ここをコンクリート何ぞで塞いでしまえば、地下水がほぼ途絶える可能性が出て来るでしょう。
これを防ぐために、バイパスのルートも変えて欲しいと言っているのに、それを別方面から済し崩しにしたいって、決定の責任者は後々まで恥を晒したいのだろうか……言われても仕方ない気がする。
それとも、そこでヤンキー(既に死後か?)に打ち上げ花火でもして、遊んでくれと場所提供したいの?
バイクでも乗り入れて、夜中まで騒いでくれとでも??
そうなる事は目に見えているでしょうに……
先日の記者発表では、斜面に設けられた石組みを居館の堀の一部かと推定して、それなりに話題になっていた調査です。
桜井市脇本の一帯で調査が始まったのは、昭和59年からだそうで、今までに主な時代として、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の三期にわたる、大型の建物跡の存在が確認されています。
一番有名なのは1次調査で見つかった、7世紀後半の正方位に乗った柱列と、その下層から出て来た5世紀後半の大型の建物跡でしょうか。
日本書紀などの記述によれば、ここには雄略天皇の泊瀬朝倉宮を始めとした大王の宮、天武天皇の皇女の大伯皇女の斎宮などがあったとされ、これらに関わりのある遺構ではないかと話題になって、調査は更に続いているそうです。
現在の成果では、春日神社の南側一帯で検出された建物群や、東西方向の回廊かもしれない柱列などから、春日神社の辺りが遺跡の中心と見られているようです。
今回は相変わらずの道路拡幅に伴う調査だそうですが、いつもよりも北方向に広く開けたお陰で、件の石積み遺構も発見されました。
これが東西方向に30メートルも真っ直ぐに続いていて、すぐ近くに「池田」という字名もあるので、大きな池の護岸かと思われたのですが、池と思しき落ち込み内の埋土からは、水が溜まっていた形跡(有機堆積やら珪藻などの植物プランクトンの検出)は見られず、遺構の底面も60メートル近くに渡ってフラットな状態で掘削されているのだとか……人工的な地形なのは分かりますが、何の目的で成らされたのでしょう(・・?
石積み遺構は、池の護岸にしても、古墳の拭き石にしてもおなじみですが、まずは裾の部分に大き目の基底石を真っ直ぐに並べまして、縦横に目安となるような目地石をやはり直線に並べて、升目の単位を造って並べて行くという方法を取っています。
池状遺構(水は溜まっていなかったようですが)の上層からは6世紀後半の須恵器が、最下層からは5世紀後半の土器が出ているので、機能していたのは、この一世紀くらいの間のようです。
しかしこの石積み、今のところは北側でも東西の側でも確認されておらず、具体的な機能はまだ何とも言えないようです。
なお、この石積みの南側には、弥生後期の竪穴住居や溝が出ていまして、そこを壊すような形で地面が掘り込まれて、石積みが作られています。
更に南には初瀬川が流れ、遺跡自体はこの河岸段丘の上に乗っているので、水に近い場所として、案外早い内から人が住み着いていた様子は分かります。
それにしても外は相変わらずの暴風雨……ピークは夜だそうで(--〆)
紀伊半島への上陸はなかったようですが、今頃、ここの現場の池状遺構、本当の池になっているのでは(゜_゜)
一番有名なのは1次調査で見つかった、7世紀後半の正方位に乗った柱列と、その下層から出て来た5世紀後半の大型の建物跡でしょうか。
日本書紀などの記述によれば、ここには雄略天皇の泊瀬朝倉宮を始めとした大王の宮、天武天皇の皇女の大伯皇女の斎宮などがあったとされ、これらに関わりのある遺構ではないかと話題になって、調査は更に続いているそうです。
現在の成果では、春日神社の南側一帯で検出された建物群や、東西方向の回廊かもしれない柱列などから、春日神社の辺りが遺跡の中心と見られているようです。
今回は相変わらずの道路拡幅に伴う調査だそうですが、いつもよりも北方向に広く開けたお陰で、件の石積み遺構も発見されました。
これが東西方向に30メートルも真っ直ぐに続いていて、すぐ近くに「池田」という字名もあるので、大きな池の護岸かと思われたのですが、池と思しき落ち込み内の埋土からは、水が溜まっていた形跡(有機堆積やら珪藻などの植物プランクトンの検出)は見られず、遺構の底面も60メートル近くに渡ってフラットな状態で掘削されているのだとか……人工的な地形なのは分かりますが、何の目的で成らされたのでしょう(・・?
池状遺構(水は溜まっていなかったようですが)の上層からは6世紀後半の須恵器が、最下層からは5世紀後半の土器が出ているので、機能していたのは、この一世紀くらいの間のようです。
しかしこの石積み、今のところは北側でも東西の側でも確認されておらず、具体的な機能はまだ何とも言えないようです。
なお、この石積みの南側には、弥生後期の竪穴住居や溝が出ていまして、そこを壊すような形で地面が掘り込まれて、石積みが作られています。
更に南には初瀬川が流れ、遺跡自体はこの河岸段丘の上に乗っているので、水に近い場所として、案外早い内から人が住み着いていた様子は分かります。
それにしても外は相変わらずの暴風雨……ピークは夜だそうで(--〆)
紀伊半島への上陸はなかったようですが、今頃、ここの現場の池状遺構、本当の池になっているのでは(゜_゜)
朝の10時過ぎまでは薄日が射す程度の曇りだったのですが、出かけようかと思った11時過ぎには雨が降り出して、少し様子を見ようかと思っている間に土砂降りとなり、風も出てきて現在の状況です。
東から西に風が吹いているようで、玄関を開ければ吹き込んでくる……外に出るのがためらわれたまま、終ぞこの時間です・゚・(ノД`;)・゚・
多分、夕方には紀伊半島の南端に上陸するのではと思うのですが、テレビをつけても、どの局もお間抜けな休日の昼下がり番組ばかりで、気象情報のテロップすら流していません。
奈良がこの状況なら、大阪だって大荒れだろうになぁ(゜.゜)
外に遊びに行けない猫たちは、家で寝ております。
気温も(連日よりは)やや低めの上に、雨の日の猫は、とにかく眠いのだそうで……シマコなんて、戸袋の定位置から降りて来やしない(・.・;)
ナタはいつものように重ねた布団の上で寝ています。
ところでこの画像で一緒に写っている赤い物体は、“蹴りぐるみ”というヤツで、海老の形をしています。
前脚で抱えて、後脚で蹴っ飛ばして遊ぶ、そういうおもちゃでキャットニップが入っているとか。
シマコもナタも気が向くと遊んでくれますが、普段はそれほど反応してくれませんで、お茶をひいている時の方が多い状況です。
ちなみにこいつの名前、最初は“しんのすけ”だったのが、最近は“しんぞう”になっております。
“えび しんぞう”……先週話題の、カツカレーの代議士の親戚ではございませんm(__)m
また診断メーカーとやらで遊んでおりました。
「あなたに仕える精霊ったー」
うめぞーの精霊は風格ある老人の姿、胡散臭い性格で本来の姿は獅子です。影を操り、戦いでは性格が変わりがちです。貴方の事を見下しています。 http://shindanmaker.com/276238
誰か、別のキャラクターを思い出す……白壁王とか、百済王真鳥とか(--〆)
作者の事、絶対に見下してるからなぁ、あのファミリーの面々はε-( ̄ヘ ̄)┌
すると、例外なく歴史上の有名人が変人として出て来たりします。
うちの設定では極めて良識人の右大弁藤原百川が、時の南家一の切れ者の中納言縄麻呂と、太政官の中庭で話をしておりました。
かなりややこしい上に、極めて危ない話です……
途中にこのような会話がありまして、書いた本人が、つい失笑してしまいました(^_^;)
それにしても、この二人、かなり緊張感に欠けた所があります?( ・◇・)?(・◇・ )?
「この騒ぎが良い隠れ蓑となっておるが、まさか御身ら、大学頭(だいがくのかみ)を突ついてわざと揉め事を起こしたのではあるまいな」私は悪い癖で、つい勘繰る。
大学頭の淡海三船(おうみのみふね)という男は、つまらない所で頭が固くて融通が利かないと、十人中十人までが認めるほどの偏屈者だ。それでも先の吉備右大臣にも負けじと劣らぬ有識者として名が通り、そちらの方面では賞賛する者も多い。
「そこまで私は悪賢うはない、大学頭が勝手に騒ぎ出してくれただけだ。さて、御身も忙しい身であられようが、山部親王(やまべのみこ)が勝手に突出した行動をとられぬよう、監視していてくれぬか。まったくあの御仁は、自ら動くのが御好きなゆえに、こちらが合わせるのに苦労する」
ここでの一人称語りをしているのが百川で、この時は四十歳くらいでしたか。
百川と縄麻呂にとってのいじられキャラは、淡海三船ではなく山部親王です。
藤氏の面々もかなり口が悪いですが、一番悪いのは皇家の御方々です。
白壁天皇にいたっては言いたい放題、やりたい放題、どんだけ自分が好きなの……ちゅう状況です(-_-;)
大体において一番のいじられキャラは主人公なのですが、そういう御仁は脇役になっても、作者にとっては存分ないじられキャラです( ̄▽ ̄)。o0○
既にシマコよりも大きい上に、心なしか肥満傾向が見えるような……
「子猫保護したけど、引き取る気ある?」と電話をもらったのは、忘れもしない天理市の大和神社(おおやまとじんじゃ)の『ちゃんちゃん祭』の日でしたから4月1日です。
その時はまだ、目も開いていなかったので、生まれて何日も経っていなかっただろうという事。
それじゃ、3月30日くらいを誕生日にしておきますか。
いずれにしても牡羊座です。
モノの本に、ボス猫になりやすい猫の星座という事が載っておりまして、トップは獅子座、次が牡羊座か射手座だと書いてありました。
いずれにせよエレメントは火か……(゜.゜)
それにしてもこいつは、いつも変な格好で寝ております。
ここでもツイストしてヽ(^o^)丿してるし……
確か東宮坊から造甲賀宮司に出向になって、平城還都の後には造東大寺司の次官になって五位に昇格し、そこからコンスタンスな出世街道にのぼったかのように思えるのですが、とんでもない……かなり上位者に振り回された官界生活を送った人です。
大和少掾(しょうじょう)を兼任のまま、造東大寺次官に就任したのは三十歳の頃ですから、天平勝宝四年の大仏開眼の年には三十四歳くらいになるはずです。
この後、摂津大夫を経て、またもや造東大寺司に戻って来た天平宝字七年には長官に任命されました。
それが45歳の時ですから、今も昔も一番仕事に載っていた年代でしょう。
ところがこの翌年、大宰府管内に左遷……
『続日本紀』にはストレートには書かれていないのですが、宝亀八年の藤原良継の薨伝を見てみますと、この時に良継、石上宅嗣、大伴家持と伴に大師(藤原恵美押勝)の暗殺を謀った云々と見えていて、これを密告された揚句の流罪同然の左遷だったようです。
この後、政界のトップが替わると筑紫に滞在したまま、肥前守や大宰大弐になって実力を発揮し、都に戻った神護景雲元年には、称徳女帝によって造西大寺司の長官に抜擢されました。
女帝崩御の後、光仁天皇の御代でも、正四位下にまで上って官界の上部にいたのですが、宝亀六年に何やら不可解の事件が起きています。
これが物議をかもしまくる第16次遣唐使の節刀大使への任命です。
最初は節刀を賜って宝亀七年の初夏に難波を出向し、肥前国松浦で風待ちに入ったようですが、数ヶ月たった秋になっても出向の機会に恵まれず、時季は冬となって大使は都に戻り節刀を返上してしまいます。
しかし副使以下は大宰府に留まって、更に時期を待っている状態です。
明けて宝亀八年、四月に再び遣唐大使として天皇に辞見したのですが、ここで病気と言い出して留まろうとし、揚句に輿に乗って難波まで行く羽目になり、それでもまだ病気だと訴えていたようです……
光仁天皇がここで諦めたかというと……あくまでも大使は佐伯今毛人だとして、副使の小野石根に大使代行を命じて、四つの船は出港して行きました。
意地でもこの人を唐に送り出したい陣営と、それを阻もうとする陣営が、裏というよりも上に存在していそうな気がするのですが、どうも良く分からない事件です。
次の動きは宝亀十年九月、筑紫で少し大人しくしていろと、またも大宰大弐に任命されます。
思うにこの頃、既に天皇から皇太子に実権は移っているようで、翌年の天応元年には正四位上に叙位されている事から考えても、先の遣唐使の騒ぎに裏には、絶対に山部皇太子が関わっていると見ても不思議ではありません。
皇太子――即位した桓武天皇は今毛人を評価していたようで、延暦元年には都に呼び戻して従三位左大弁兼大和守に任命し、造長岡宮使の一人にも抜擢し、その功労で参議にまで取り立てて正三位の位まで与えます。
しかし、掌を返したように、またもや大宰府に下れと命じられるのは延暦五年の四月です。
それまで多々兼任していた役職は、参議以外は全て解任されて、大宰帥としての赴任です。
この前年の九月に起きた、中納言暗殺に続く皇太子更迭事件との関わりを誰もが思うところです。
三年後の延暦八年正月、七十一歳になった今毛人は、これを時期と骸骨を乞い官界を去り、九年の十月に七十二歳で生涯を閉じる事となります。
考えてみると、大仏造営から始まって、様々な造営事業に関わり、有能な実務屋だったために、生涯にわたって天皇の考えに翻弄され続けた人だったのかもしれません。