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旧ブログと申しますか、セカンドページと申しますか、この度もまったく表示されませんσ(^◇^;)
ホント、これで完全に消えてくれりゃ、いっそ清々しい?(゚_。)?(。_゚)?
とか何とか言って、また一日二日で元に戻ってたりして???
まぁ、消えても構わんのよ、私としちゃ(^^ゞ
何が分からないって、はっきり申しまして葬儀です。
『喪葬令』を見たところで、分からない事は本当に分かりません。
では今日も例を上げて考えて見ましょう?(゚_。)?(。_゚)?
天応(781)元年二月十七日、三品能登内親王薨しぬ。右大弁正四位下大伴宿禰家持、刑部卿従四位下石川朝臣豊人らを遣して、喪の事を監護らしむ。
能登内親王は光仁天皇の娘で、この時に四十九歳でした。
この当日に父親の天皇は詔で、内親王に一品の位を贈り、子供たちを二世王にすると伝えていますので、内親王の葬儀は一品の基準の行われたと考えて良いかと思います。
この辺を以前に、ここにゴチャゴチャと書いておりますが、なにやら分かるような分からないような……ヴィジュアルとしては、多少イメージは湧くのですが(~_~;)
それでですね……同僚と少し話をしていたのですが、昔々の葬式って、やっぱり家で行ったの?
天皇や皇后の場合は、宮中で行う訳には行かないでしょうから、さて、何処になるんでしょう??
法要は官寺で行っていますけれどねぇ。
能登内親王は市原王の未亡人ですから、住んでいたのは亡夫の家か、父親のかつての屋敷かというところでしょうか、多分、内裏にも東宮院にも西宮院にもいなかったと思います。
既に二十歳を過ぎた息子と娘がいるので、喪主は問題ないとしましょう。
私のプランでは、この人はいつも出て来る左京北一条第に住んでいた事になっていますので、この一坪占有の屋敷で葬儀を行っても良いかなと考えておりますが……
次の問題、この葬儀に出席できた親族って誰?
間違っても父親の光仁天皇は無理(多分、病床の身)でしょうし、母親の高野朝臣新笠(夫人)も出席できるとは思いません。
同母弟の山部皇太子は……これも難しいような?
それじゃ、もう一人の早良親王はどうなのでしょう……この人なら大丈夫かしら??
まぁ、従兄弟の壱志濃王や神王なら、監護の側にまわる可能性もありますね。
何せ壱志濃王に至っては、治部省畑の専門屋ですから。
そして次の疑問、服喪は?????
親のみならず、子供に先立たれた天皇は一年間、喪服を着る慣わしがあるようですねぇ。
そして子供たちは、三十日くらいは官職を解かれるようです。
まぁ、五七日が明けたら職場復帰するような感じでしょうかね?
それで……まさかと思うけど、喪服で出勤する訳じゃないでしょうね???
いつもながらに、このような事にばかり引っかかっていて、全然進みやしませんわ(/_;)
今考えている話では、早良親王という御仁は宝亀十(779)年の秋に還俗を決めます。
法名を考えないままで書いているから、何ともここまでが書きにくかった事(~_~;)
それはともかく、この御仁は大安寺(っつうか、醍醐寺っつうか……)などに残る記録に信憑性があるのなら、十一歳で出家している事になります。
そもそも、この人の生年や何かはどうやって割り出せば良いんだっけ?
件の超当てにならない『本朝皇胤紹運録』に立太子した天応元(791)年に三十二歳と書かれているのは、何となく知っているんですが、他の史料はあるのかしらねぇ。
ともあれ天応元年に三十二歳ならば、宝亀十年には三十歳、親王宣下されたであろう宝亀元年には二十一歳ですね。
まともな学者などの考察では、この御仁には妻子のいた形跡はないとなっておりますが、与太な物書きうめぞーの考察では、一応妻子持ちです。
古来より良い所の御子息などには、成人した時に夜の勤めの類を教えてくれる年上の女性がおられる訳ですね。
ところが幼少のみぎりで出家して、二十一歳で受戒してじゃ、一般で言うところの成人式というのがないも同然でして……寺には稚児が云々なんてのは、取り合えず脇に置いておきまして(-_-;)
『四分律』の説くところ云々というのも、まぁ、別の話と致しまして……(--)
私の予定では、この御仁の妃となる人は、ちょうど十歳年下です。
この時代、二十歳過ぎれば中年増などと失礼極まりない事を言うそうですが、この女性は立場上と言いますか身分的にも、この年まで誰にも嫁いではおられません。
しつこく設定を申しますと、三十歳で還俗して初めて妻女を迎える男性と、今まで未婚でいた二十歳の女性が結婚する事になる訳ですね。
この二人の結婚生活が上手く行くのか行かないのかの問題ではなく、俗に言うところの男子としての成人の儀式が十代半ばで済んでいない方が問題なんですわね。
考えてみれば、淡海三船なども同じパターンとなるのですが、よい年と言われる頃に還俗をして、その後に家庭を持った人の成人式ってのは、さて、どういうものなのか……
こういう戯けた事を考えてお茶を濁してる暇があったら、さっさとまともな考察をしろというのが、私としての結論ではあるのですが(--〆)
やっぱり私も基本史料が『続日本紀』なので、当時の陸奥と中央政府くらいに認識にずれがあるみたいです。
こいつを考え始めると……いかん、また病気が出て来た(@_@;)
問題は全然単純じゃない、何せ私の中では、在地勢力同士の抗争が知識としても意識としても、殆ど認識されてません。
この辺は『続日本紀』の記述にも拾う事が可能ですが、例えば伊治呰麻呂が道嶋大楯と云々をそのまま飲み込んでも良いものやら……こういうところを疑うのが、そもそも病気なんだが(ーー;)
ところでうちの主人公と道嶋嶋足は知り合いなんだろうか?
田村麻呂は間違いなく知り合いだろうなぁ、何せ親父様の飲み友達だし?
嶋足と大楯はどの程度の関わりがあるんだろ、別にほぼ他人でも構わないのですけどね。
ついでに大伴真綱と大伴真麻呂はどうしようかな……こいつらを下手に兄弟とか従兄とかにすると、また話が不必要に複雑になるだろうしなぁ。
本当に大伴氏は系列が全然分からなくて苦労するわ、紀氏もだけど(--〆)
いや、一番苦労させられるのは、アイデンティティを喪失している主人公だけどね(・_・;)
休憩の茶を飲みながら、年齢が分からない人の大体の年代を考えておりました。
延暦四年の九月に主要登場人物となる面々なのですが、はっきり言ってどの人もこの人も、系統が分からなくて手がかりなし(T_T)
何となく分かるのは若干二名のみ……大事件の割にはキャストがなぁ、などと不謹慎な事を考えつつも、取り合えずはこんな具合となります。
まずは藤原雄依、異母兄の家依よりは少し年下になるのかな?
この二人は永手の息子たち、家依が長男で天平十五(743)年生まれ、雄依は次男か三男なので、まぁ、それ程年は離れていなくても良いでしょう。
次が、この前から何度か名前の出て来る大伴継人ですが……
天平宝字元(757)年に亡くなった父親への連座を問われていないところから見ても、この頃はまだ成人前、十五歳にはなっていなかったと見るのが妥当でしょうか。
最年少に見積もってこの年か次の年の生まれ、最年長の十四歳(数え)だとしたら天平十六(744)年生まれですね。
そうなりますと、亡くなった延暦四(785)年には四十二歳(数え)よりは若いというところですか。
どうやら藤原雄依と大伴継人はほぼ同年代と考えて良い訳ですね。
この二人の共通点ってあるのかなぁ……北家も大伴も桓武天皇には好かれてないとか?
継人は雄依の乳母子というのは、取り合えず無しねσ(^◇^;)
それにしても、この二人よりも一回り以上若い五百枝王は、どういう関わりで出てくるんでしょう?
同調させる要因が考え付かなくて……それじゃ話にならんだろう(ーー;)
あんまり安直に考えたくないのが、この人達と藤原種継の仲なんですよね。
例えば、種継が近江守になった時、介は継人で、この時に恨みを抱いた云々みたいな、今更みたいな展開では私自身が全然納得しないというか、面白くもなんともないというか……
相変わらずの天邪鬼が、こういうところでも自分で首を絞めている訳なのですが(-_-;)
あぁ、今日(とっくに昨日)の橿考研の現説もその内に上げなければ……
今年は行って来ました、大阪の四天王寺の『篝の舞楽』です。
四天王寺の舞楽法要は毎年同じ日なので、大抵が平日に当たります(-_-)
そういう訳で、今年も八月四日は水曜日でした。
今年の演目は
『振鉾(えんぶ)三節』
『萬歳楽(まんざいらく)』
『貴徳(きとく)』
『打毬楽(たぎゅうらく)』
となっておりました。
そして今年も伶人らの多さにブッタマゲました。
ざっと数えて……80人はいましたでしょうか。
他の楽所の数倍の規模で演奏してくれますから、これに慣れてしまうと……(~_~;)
風もほどほどにありましたが、火の粉が客席側に飛ぶような事も殆どなく、夕方まで懸念されていた夕立の心配もなく、今年は良いコンディションで拝見できたでしょうか。
それにしても何年か前までは、全ての演目が終わる前に帰ってしまう人が、かなりいたように思うのですが、ここ最近は最後の『長慶子(ちょうげいし)』が終わるまで、席を立つ人は殆どおられませんね。
このジャンルもかなり一般に普及したって事……それとも昔は無料でしたっけ?
私ゃ、学生時代からこちらの『友の会』に入ってるから、いつもチケットは送ってもらってたし、この辺の記憶が曖昧σ(^◇^;)
『続日本紀』のように日付を追って記された記録を眺めていて、時々こいつが、チョッと分からなくなる事があります。
天平十二年に藤原広嗣が大宰府にて兵を上げた時の記事も然りですが、このところ眺めている宝亀十一年の伊治呰麻呂の乱も然りです。
これらの記録の最初は、現地にてこの事件が起きた日付から始まります。
ところが大宰府にせよ多賀城にせよ、都からかなりの距離がありますので、事件が都に伝わるのは数日後の事となります。
そのせいで、中央で迅速な処置や命令が下っても、数日の開きがあるため、対応がかなり暢気に見えてしまいます(-_-;)
更には、早馬で伝令が来るのでしょうが、これが一発で情報をもたらすとは思えません。
例を示しますと、宝亀十一年の三月二十二日に伊治城で反乱が起きます。
それに対して都が征東大使や副使を任命したのは二十八日です。
陸奥按察使が殺害されたという知らせに、太政官が六日も何もしない訳がありません。
これがまさにタイムラグです。
そして二十九日、陸奥介の大伴真綱を鎮守副将軍に任命しています。
鎮守将軍兼按察使が殺害された紀広純ですから、現地でのセカンドマンとなる陸奥介に権限を託すのは順当な流れに見えますが……
実は、この大伴真綱という御仁、多賀城で踏ん張って援軍を待たなければならないような立場にいるのに、城への保護を求む周辺の住人らを放り出して、掾の石川浄足と共に逃げ出してしまいます。
敵前逃亡を平然とやってくれた者に権限を与えるほど、中央政府も能天気ではないでしょう。
そういう訳で、真綱の副将軍への任命も、多賀城陥落の知らせが入るよりも以前の事でしょう。
ここで名前の見える二人の逃亡者、以後の消息は分かりません。
もしかしたら、関東から発動された援軍にでも保護を求めて、その後に都から来た将軍たちに引き渡され、都へ護送された後に軍事裁判にかけられたかもしれません。
二人とも都の官人ですし、そうなった時の結果が分かっているでしょうから、そのままどこかへ逃亡した可能性も無きにしも非ず……権門出身のエリートのはずなのに(/_;)
『光とあかり祭ⅰn奈良』
あちらこちらで、もっと綺麗な画像を一杯、上げてくれていますので、今更私が云々するのもおこがましいですが、7月31日から8月4日まで奈良公園周辺で行われていたイベントです。
これは大阪の中ノ島で行われている『OSAKA 光のルネッサンス』です。
本来は中ノ島公会堂の建物をライトアップするのですが、今回は奈良国立博物館の本館に合わせて、このように光のステージを展開してくれました。
その他のイベントは、とにかく行った日がすごく混雑しておりまして、まともの写真を
