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いい加減、何でも良いから書き始めねばと、思いつくようなところから断片的に始めたのですが……
今回ほど、登場人物のイメージが上手く固まらないのも珍しいです。
何と言っても、重要な脇役の名前すらが決まっていないので、書いていてもやり難いの何の……
この重要な脇役が早良皇太子です。
名前とは、以前からぼやいている法名ですね……
この御仁が十一歳で東大寺の羂索院に入って、登定(等定)僧都に師事し、後に権別当となる実忠和上が長らく仕えていたとは、いくつかの史料にたどる事が出来るようです。
その後、十九歳くらいで大安寺に移り、二十一歳で受戒、更に東院を開いて住まいしていた云々も、大安寺に残る史料で見る事が出来るようです。
……なのに、法名は何処にも書いてない(/_;)
親王が出家した天平宝字四年頃の東大寺を牛耳っていたのは、まあ、ここではいつも出てきます良弁僧都でしょう。
良弁も鑑真大和上が遷化するまでは、僧正に就任する事をためらっていたのか、周囲が躊躇していたのか、この頃はまだ僧都ですが、東大寺の管主である事は動かないと思います。
そういう訳で、三世王を弟子の一人に迎えて法名を与えたとしてですよ……良◎、とでもいう法名で良かろうかと考えていたのですが、ここでつまらない疑問(ーー;)
親王の諱は早良ですよね。
本名の一字が、法名の一字とダブっても良いものなのかしら。
親や主君が名前を与える時は、自らの名前の一字を与えるのは、日本では当たり前の事ですが、中国ではこれがタブーなんですよ。
法界でも師が弟子に一字与えるのはつき物だと思うのですが、本名と法名の関係ってのはどうなんでしょうかねぇ?????
まぁ、良弁師ではなくて等定師の名前でも良いのでしょうが、まかりなりにも皇族が相手ですから、やっぱり管主が名を与える方がありそうな気もするんですわね。
こんなつまらない事に引っかかってないで、もっと確信的な話から書き進めた方が、絶対に効果的なんでしょうけれど(-_-;)
画像は、この内容とは全く関係ない、橿原市のおふさ観音の境内です。
ただいま、『風鈴祭り』を開催しています。
ここ何日か、降りそうで降らない天気が続いておりましたが、本日こそ朝から土砂降り……
奈良文化財研究所の都城発掘調査部の現地説明会は、結構、降水確率が高いような気がします(~_~;)
それでも中止せずに毎回、決行するところがありがたいものです。
画像の通りの雨の現場です。
ここでやけに目立っている真っ直ぐな溝は、藤原宮よりも後の時代の耕作によって出来た溝です。
いわゆる条里制田圃というやつでしょう、東西南北が整然としているので、ついそちらに目が行ってしまいますが、こいつを掘り上げないと、それ以前の時代の遺構の検出が出来ません。
藤原宮の時代まで上土を除きますと、全面が礫を敷いた地面が現れます。
そして水はけのための礫敷き暗渠と、通路の側溝らしき溝が、南北方向に検出されています。
これはかつて北側を調査した時にも延長が出ているそうです。
これらの溝と共に柱の列が検出され、この場所を区画して東西に長い掘建柱建物が二棟検出されました。
このようにして出て来たのが、新聞等でも報じられた天皇の即位儀礼に関わる遺構です。
天皇が即位しますと、その年の十一月、即位が七月以降の場合は翌年の十一月に『大嘗祭』が行われます。
その儀式の為に『悠紀国』と『主基国』が選ばれ、それらの国から奉納された新米を朝庭に設けた仮家で、神と共に食したとされています……と言っても、今現在まで皇室の神事として、関係者以外には全く知る術のない儀式なので推測でしかありません。
ここで新たに即位した天皇が籠もる借りの施設を『悠紀院』『主基院』と呼びます。
今回検出されたのが『悠紀院』の北半分です。
さて、この『悠紀院』はいったいどなたの即位に使われたのでしょう?
藤原宮で即位した天皇は、『続日本紀』によれば二人おられます。
まずは697年即位の文武天皇、そして707年の元明天皇です。
現在はまだ調査の途中との事で、この先、更に下層まで一部を掘り進める事で、もしも別の建物跡が検出されれば、この『大嘗宮』がどちらの天皇の物かも自ずと分かるのですが……(・・?
ともあれ今回発見された『大嘗宮』は、平城宮時代の七代六人の天皇の宮に先立ちますので最古の例となります。
下層の調査の結果が出るのは今年の秋だそうで、その折には再び現地説明会が行われるという事でした。
『東明寺』の帰り、国道25号線を通ると、かなり混雑している時間だと思われるので、そちらを避けるべく、記憶をたどって裏道を南下しておりました。
お陰で見当違いの、富雄川沿いの道に出てしまいまして、まぁ、このまま南下すれば大和川に出るでしょうと、あまり気にせずに走り続けました。
『法隆寺国際高校』を過ぎて、『法隆寺自動車学校』を過ぎた辺りで、左手前方に鳥居が見えたので、ここでチョッと地図でも見ようかと、すぐ脇にある駐車スペースらしき場所に乗り入れました。
しかし、ロードマップにはこの神社は載っておりません。
ともあれ、さっき自動車学校を過ぎたところだから、安堵町笠目という辺りです。
鳥居の横に由緒書きの看板があったので、見に行ったところ……『御霊神社』でした。
何でこんな所に御霊さんなのでしょうと由緒書きを見ますと、
『祭神は不詳だが、一説には津速彦霊命とする。由緒も不明だが、以前は牛頭天王を祭神とし、富雄川治水のための水神を奉祀したものか。境内末社に水神を祭る龍神社がある。(後略)』
牛頭天王ならば『八坂神社』だと思うのですが、もう少し南に行って、大和川を越した所に『広瀬大社』がありますから、そちらと関連がある水神様を祀っているというところでしょうか。
そういえば、奈良市の大安寺にある『御霊神社』も水に関係する神様を祭っていましたっけ。
水と御霊、何か関係があるんでしょうか?
ところで関東で『御霊神社』というと、確か有力氏族の祖先を祀った神社だと思うのですが……
う~ん、所変われば神も替わる?
……ブラジルのオウンゴールだと?!
あ~あぁ、何となくオランダペースになって来てない??
ドゥンガ監督、吼えろ……この人、ジュビロ時代、いつも吼えてた印象ありますわ(^_^;)
今日も夜更かしして、ワールドカップ見ているうめぞーでした。
いきなり『あんぱん』と……
画像が悪いので文字が読めませんが、『たかだあんぱん 桜餅入り』と書かれた袋に入っております。
『たかだ』とは大和高田市です。
市内外でも、地元では結構有名な『ウエダベーカリー』のヒット商品です。
私の下手な写真よりも、こちらのタウンペーパーのブログ画像の方が綺麗ですね。
ウエダベーカリーは橿原市内にも支店があるのですが、このあんぱんは売っておりません(/_;)
そういう訳で、久々に高田市内で買って来て、今日の朝にコーヒーを入れて食べておりました。
美味です、はっきり申しまして、こちらのパン屋のパンはどれも美味です。
何せこちらの社長さんは、関西でも指折りのパティシエなのだとか。
パンだけではなく、勿論ケーキも売ってますが、私はついこっちに手が出るかなσ(^◇^;)
明日、ダイジェスト見るので我慢しておきましょうか。
そういう訳で、四年に一度、にわかサッカーファンになるうめぞーでした。
ともあれ、ドイツは勝ったか。
韓国とアメリカが負けたのは残念だが(-_-;)
余力は火曜日に残しておかねば??(゚_。)?(。_゚)??
おかしい……さっきのゴールで同点じゃないのか??
とか何とか言いながら、実はドイツの応援しております(~_~;)
おっと、久々に間違ってUPしてしまいました(^^ゞ
え~と、侍従でしたね。
とりあえず、桓武朝の初めに侍従だった人の名前を拾って行きますと、
藤原是公(天応元年9月3日中納言就任)
藤原家依(延暦四年6月20日薨去)、
藤原雄依(宝亀九年2月18日就任)
藤原浜成(延暦元年閏正月18日解任)、
五百枝王(天応元年10月4日就任)、
藤原鷹取(延暦元年6月14日石見介に左遷)、
藤原乙叡(延暦三年7月13日就任)、
藤原弟友(延暦四年正月14日)……
若干の入れ替わりはあると思うのですが、見事なまでに藤原さんだらけ(^_^;)
兼任官を見ておりますと、さすがに中納言以上はないようですが、参議や八省の卿に就任している人も見られます。
欠員が生じると、割合に時期を置かずに新たな人を任命している様子も見えます。
藤原雄依(北家、永手の息子)は十日前に亡くなった奈貴王の後任として抜擢されています。
五百枝王も是公の中納言就任の一月後ですから、後任人事の可能性もあります。
鷹取(北家、魚名の息子)の就任時期が分からないのですが、宝亀十年の十二月に縄麻呂(南家、豊成の息子)が亡くなっていますから、この頃かもしれません。
しかし、浜成と鷹取の解任後の人事がないんですよね。
侍従って、はっきり言って何をしていた訳なの?
うちのスメラミコトも宝亀元年に就任してるけど??
もっとも私の予定では、この人の侍従就任は天平宝字年間の最後辺りになるんですが(・・?
大阪府立近つ飛鳥博物館で明日まで行われている春季特別展『継体大王の時代』です。
継体大王の時代って何時?と聞かれますと、取り敢えずは6世紀の初めと答えておけば、特に間違いはないでしょう。
この展示のサブタイトルは――百舌鳥・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け――でして、こちらの博物館は古墳時代をメインに展示を行っているので、当然の事ながら後期古墳の出土遺物がメインです、というか、ほぼそればかりです(^^ゞ
すごいなぁと思ったのが、継体天皇(継体大王)の故地と、そこに造られた古墳からの出土品の共通性でして、こいつが一つ二つの出土品のみではなく、幾つも製品に渡って見る事が出来るというところです。
例えば『捩り環頭大刀』、そして『広帯二山式冠』、『三葉文楕円形杏葉』、『十字文楕円形鏡板』、更には『尾張系埴輪』、『千里系須恵器』、『金属製梔子玉』、『埋木製棗玉』なども、継体政権を支えた人々に関係する遺物と考えられるそうです。
そしてこれらの出土状況を六世紀前半と後半で比べてみますと、何となく地域的な推移が見られる事も分かっています。
前半には近畿地方でも北部、近江や越、尾張にも分布し、後半には主に大和や摂津に分布しているそうです。
これが何を表すかといえば、政権を支えた勢力の力関係でしょう。
前半に力を持っていたのは、北部周辺の在地首長たち、割合に小さな古墳の主です。
一方後半に勢力を伸ばすのは、かつてより大和を根城にした大豪族でしょうか。
大王は、この双方を自らの勢力として抱えていた事は間違いありません。
この動きを『日本書紀』の記述や従来の研究成果に照らし合わせて見ますと、まさに継体天皇の崩御の後の息子たちの相続争いに合致するようです。
六世紀後半、継体朝を支えた大伴氏をトップに立てた勢力は、欽明大王を担ぎ上げる蘇我氏の配下に出し抜かれ、近江の息長氏や東海の尾張氏なども追い遣られて行きます。
さて、ここからはどうでも良い話σ(^◇^;)
私が昔書いていた話に出て来る越のヲホドという人は、調子が良くて押し出しの強い口八丁の男前……みたいなキャラクターでしたか。
このヲホドが、生真面目で朴念仁の根暗な葛城忍海弟彦狩野というキャラクターと、妙に仲が良いらしいと白髪太子がぼやいておりました。
私が書いていた与太話は、雄略朝から清寧朝を経て、いきなり継体朝になだれ込むという、かなり奇妙な展開でしたので、最大のキーパーソンの一人たる葛城狩野は、葛城氏のみならず、吉備氏、息長氏、大伴氏、蘇我氏にまで影響を与えるような、複雑で忙しい生い立ちを持っております。
しかし、研究者にとっては、継体天皇だろうが大伴金村だろうが蘇我稲目だろうが、プロフィールは重要なのでしょうが、キャラクターはあまり必要ないようです。
実際のこういう人達は、何に歓喜し、何に憤慨し、何を求めて苦悩したものやら……
かつては豪華絢爛だった遺物を眺めていても、想像以外の何も出来ない無能者のうめぞーでした。
