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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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堂の下は傘の群れ一日から東大寺は『修二会』の本行です。
そういう訳で一日から十四日までの毎晩、二月堂には練行衆の足元を照らすためのお松明が上がります。
それにしても今年は、随分と雨が多く、今日も朝からずっと雨模様。
おまけに一月前の気温に逆戻りしたかというほど寒い日です。

先日に職場の若い人と、
「雨が降ったらお松明、中止になると思っている人もいるかもしれないねぇ」などと話しておりましたが、
「そんな人、いますかねぇ?」と、奈良県で生まれ育った彼女は言っていました。
いやいや、県外の観光客を侮ってはいけない?
未だに、お松明が上がるのは十二日の晩だけと思っているとか、『お水取り』は修二会の中の一つの行事でしかないという事を理解していない人も大勢いるみたいです。

欄干の北端にてそれでも少しずつ、情報が正確に広まっているようで、最近では平日でもかなりの人が見学に来るそうです。
そして今日は休日、十九時前には既に二月堂前の庭には入場規制がかかり、職員駐車場を開放して、第二見学地から遠望してもらう事になったようです。

私はどこにいたかって……
十七時半には二月堂の上におりまして、そのまま居座っておりました。
三月七日は本行のご本尊が『大観音』から『小観音』に変わる日なので、夕刻から『小観音』さんの出御の法要が行われます。
そのせいか、やけに人が多い……
私が陣取っていた場所からは、内陣の法要の様子は全くといって見えず、雅楽の音と、厨子の前で低頭する僧侶の姿が、時々見え隠れする程度でした。
う~ん、来年以降は法要の次第を頭に入れておいて、遅くとも十七時には正面に陣取らねば……と、今日も(;一_一)不謹慎な奴でした(--〆)

目の前をお松明が通ります。二月堂の上でお松明を見る事が出来ると知ったのは、実はごく最近でして、ここで見るのは初めてです。
聞いた話では、撮影ポイントを探して人が動き回るくらいの余裕があるという事だったのですが、今日の様子では、まずそれは難しいです。
多分、平日に見た人の話でしょう。

二月堂に上がるのは、十八時前には規制してしまうので、早めに行って待つ事を覚悟しませんといけません。
まぁ、火の粉をかぶるくらいの真下で見学するのも、同じくらいの時間に行かないとだめですからねぇ……どっちもどっち、ポジションとしてはどちらも捨てがたいですねσ(^◇^;)

ともあれ、お松明終了後も外陣でボケ~ッと声明を聞いておりまして、気が付けば二十一時前!
久々にやっちまったわ(ー_ー)!!と、急いでお堂を降りて駅へと向かったのでした。
それにしても、今日は寒かった……
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念のために申しますと、ここに書かれている事は『続日本紀』などの一次史料をどのようにひっくり返しても、恐らくは出て来ない事でしょうから、信じると恥をかく恐れがあります。
つまり、この戯言に出てくる人事関係は、私の書く話の中でのみ通じる事が殆どです(-_-)

うちのスメラミコトの一家は、建設畑と防衛畑が多いと思ってたのですが、これがとんでもない間違い……
志貴親王、白壁王、山部王、三人とも中務省出身?????
そもそも建設省じゃない、造宮省自体が臨時の司なので、こちらのトップクラスに任命される人って、何処かの司からの出向とか兼任が多いんですよね。
おまけにトップは名誉職(知事など)の場合も多いです。
この類って、やっぱり皇族が適任なんでしょう。
だから実質的な事を掌握して動かして行くのは、次官以下の人たちになります。
まあ、造東大寺司の市原王と佐伯今毛人みたいな関係ですかね。

ところで防衛族……こいつは完全に作者の趣味でしょうσ(^◇^;)
上記の三人の内、実際にこのポジションにいた形跡の人は誰もいません。
……っちゅうか、建設族であった事も中務畑にいた事も、史実としてはほぼ無いのですけれどね。
大学寮は式部省の管轄下ですしねぇ。

今現在進めている辺りの話、放って置くと一家が太政官と皇后宮職(紫微中台)に分かれて、冷戦に巻き込まれかねないような状況になって行く……(・_・;)
この状況、どちらに転んでも、この一家が藤原氏とタッグを組んでいる事には変わりないのですが。
これが後ろ盾の無い諸王の生きる術……とは、志貴親王の世代からの教訓なんだろうか?(・・?
てむじんは上層がほしいな。
うめぞーもほしいかな?

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
皇族が賜氏姓されるとなりますと、代表的なのは「平朝臣」と「源朝臣」でしょうか。
しかしそれ以前は、もっと色々な氏姓が見られます。
たとえば延暦六年二月五日、親王でも王でもない「諸勝」に「広根朝臣」、「岡成」に「長岡朝臣」の氏姓を賜るという、何とも解せない記事が見えたりしています。
大同元年五月十六日には、五百枝王が自ら「春原朝臣」への賜氏姓を申し出ています。

この氏姓を賜うという行為、孝謙天皇以降に良く見られるのですが、それ以前はかなり少なかったのか、単に記録に残っていないのか、その辺りをしっかり調べていないので良く分かりません。
それにしても思うに、ここで氏姓をもらった人たちで後々も名前が見える一族って、かなり少ないような気がするんですよね……
「橘朝臣」「文室真人」「春原朝臣」ならばまだしも、「淡海真人」は続いてるのか?
天平勝宝年間に見える氏姓は「三島真人」 「内真人」 「美和真人」 「海上真人」 「春日真人」 「甘南備真人」 「志貴真人」 「丘基真人」 「豊国真人」 「岡真人」 といったところですが、このうちの幾つが後も見られるんでしょう……
これらの名前って、住んでいる本籍地によってつけられるのですかねぇ。
三島、宇智、三輪、磯城、岡、などなど。
多分、後にまた名前を変えられた人もいるんだろうなぁ。

それにしてもよく分からないのが、二世王から賜氏姓された「文室真人」や「春原朝臣」は自ら希望したようなのですが、他の人たちって上からの命令なのかしら、それともやはり希望しての事なのでしょうか。
皇族扱いされるのは五世王までだから、それ以下の人たちが多いのでしょうかねぇ?
無謀なのか、行き当たりばったりなのか、勢いついでなのか、次に書こうとしているのは天平勝宝の終わりと言うか天平宝字の初めと言うか、その辺です。
登場人物を拾うと、おっそろしく多いです……名前だけしか出てこない人も多いでしょうけど。
たとえば五百井女王一歳とか、酒人女王四歳とか、稗田王七歳とか、早良王八歳とか……

この辺りの群像を見ておりまして、大伴氏なんて名前だけは結構出てくるんですが、本家筋がすごく弱い時期なんだなぁというのを感じますわ。
本家筋って何処かって……どこなんでしょ?
一応、長徳からの系統をそのように解釈してるんですけど、どうも私は藤原氏以外を不勉強で、本当にここの筋で良いのかと言われると……分からん、だって、まだ生まれてなかったんだもの、と逃げたくなります。
長徳の子が安麻呂、そして次が旅人、そして家持なのですが、家持が旅人の晩年に生まれた嫡子なので、どうしても他の分家筋(という意識があるのかしらね、果たして)に出世頭が行ってしまうんですよね。
この頃は、家持の大叔父の兄麻呂が参議で、最上朗(ろうの字が出ない……)だと思います。

どうも本家がどの系統か分からない家が多くて困りますわ。
紀氏も複雑だし、佐伯氏も各人の関係が全然分からないし、多治比氏もちゃんと理解してないし……
皇族なんてもう、うちのスメラミコトの家以外は、誰が誰やらシッチャカメッチャカ、とにかく系統の分からない人が多すぎるんですよ(T_T)
まぁ、藤原氏が一番、頭に入ってるのかな??????
でも、婚姻関係が、また分からない……だから、豊成の最初の奥さんって誰よ?!

缶詰状況の先週末から風邪気味で、今日、ようやく病院に行ってきました。
「昨年も同じような時期に、同じような風引いてますねぇ」と、先生に言われまして……
同じような時期に同じような風邪を引く人が多いそうです。
まぁ、体質なんでしょう。
熱は出ないけど、ひたすら咳が出るから、体力消耗するの何のって……((+_+))

さて、一段落したから次の話を考えにゃ……っちゅう訳で、昨夜から考えているのが、五年前に書いた話を書き直そうかな、と言うところです。
主人公が父親から息子になります(・_・)だから?
多分、おっそろしく長くなります……ちなみに今回は四百字詰め換算で485枚(ー_ー)!!
相変わらず、長けりゃ良いってもんじゃないでしょう(・o・)……状況です。

そうすると、今回の十二年後か。
資料の全面作り直ししなけりゃ。
前回のやつも残ってるけど、ちょっと使い難いしねぇ。

ところでオリンピック終わりましたけど、日本人選手の出ていない競技って、全然放送してくれないのねぇ、地上波では(;_;)
おかげでアイスホッケーの決勝、見てないじゃないの!!
あれ、見なけりゃ、オリンピック終わった!って気がしないのよね(ーー゛)

これは舎利殿です。2月の半ばから今日まで、法隆寺東院の『伝法堂』が公開されると言うので、何とか午前中に脱稿してしまって、大急ぎで行って来ました。

この建物がそうなのかって?
これは
今年の正月に見て来ました『舎利殿』ですね。
『伝法堂』はこの奥にあるので、赤い上着の方の前にある階段から入ってゆきます。
普段は七月二十四日の『地蔵会』の夕方にしか空けないので、今日が最終日という事もあって、結構人が来ていました。

この奥に見えているのが、御堂の入り口です。御堂の中には、三組の阿弥陀三尊像がおられまして、他にも弥勒如来、薬師如来、釈迦如来でしか、そして梵天と帝釈天がおられました。
いずれも奈良時代から平安時代の仏像のようです。
しかしこの堂の主役は、中央の前面に立っている室町時代生まれの地蔵菩薩だそうです。

実は私は仏像の方はあまり真剣に見ておりませんで、柱やら梁を眺めておりました。
多分思うに、仏様と同じくらい御堂も古いはずです。
法隆寺は一度全焼していて、和銅年間から再建が始まったと思われます。

『伝法堂』外観
そしてこの堂は奈良時代の後半に、聖武天皇の夫人(ぶにん)の橘古那可智(たちばなのこなかち)という方が、寄進した物だそうで、元々は邸宅の中の建物の一つだったと考えられています。
前身建物の復元図では、手前の二間は吹き抜けで、奥三間はいずれも観音開きの戸が付いている形になっていましたか。
いずれにしても、仏堂にするに当たって多少の改装はしていますが、奈良時代の家屋建築の貴重な資料として有名です。

古那可智という女性は、橘佐為の娘ですから諸兄の姪になります。
藤原是公の奥さんの真都我(まつが)は妹になるはずです。
天平宝字元年に、お騒がせな従兄弟の奈良麻呂が謀反騒ぎを起こした後、橘氏の名前を一時的に避けたようで、晩年は広岡朝臣を妹ともどもに名乗っていました。
この方はその三年後になくなるので広岡朝臣のままでしたが、妹は後に橘朝臣に戻ったようです。
てむじんはキーポイントがほしいな。
うめぞーもほしいかな?

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
誰が誰を好いていないかと申せば、まあ、こいつも色々なパターンがあるのですが、藤原仲麻呂が橘奈良麻呂を好いていない事は確かです。
おまけに父親の橘諸兄とも、かなり仲が悪い(ーー;)

そもそも、諸兄と奈良麻呂の親子、うちではかなり酷い扱いされてます。
以前にも文殊菩薩を乗せた獅子か、社の前の狛犬に似ているとか言われてたし……(+_+)
白壁王の息子たちも兵部卿をつかまえて、平気で呼び捨てにしてるし……(・_・;)
まあ、今回はこういう扱いかねぇ……(ーー゛)

「まだ二十五、六だが、何というか、かわいげの片鱗もない」仲麻呂は酒瓶を置いて肩をすくめる。
「相当、嫌うておるな、御身」
「宮も話でもしてみろ、絶対に嫌いになる」確信的に言ってうなずく。
何を使わない方が良いかって、無駄な金を使うなとか、偽ブランド商品を使うなとか、人の名前を勝手に使うなとか、まぁ、使わない方が良いものは枚挙に暇もありませんが……

"何はともあれ、その事件が起爆剤となったのだろうか”

こう書いて……起爆剤って火薬の無い時代に、そういう言葉って無いでしょう(・・?

”その事件が引き金となったのだろうか”

引き金ねぇ……火縄銃とか村田銃とか自動小銃とか?
いや、弩(石弓)にも引き金はあったと思う、でも一般的じゃないわね、てんで……
そういう訳で、別の言葉を考えなけりゃ。
どうしてこういうところで、変なこだわりが出てくるんだ(?_?)
そりゃ、一人称で書いている宿命さねε-( ̄ヘ ̄)┌
ヴォキャヴラリーが無いというのもあるのだけれどね(*_*)
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
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